『日興跡条々事』元弘2年11月10日 御書1,883㌻
日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
〔大御本尊様〕
日蓮大聖人より日興が給わった、弘安二年に顕された本門戒壇の大御本尊は、日目に相伝します。本門寺に御安置しなさい。
11月15日は第三祖日目上人が御遷化された日です。今年は693回目にあたります。今月は第二祖日興上人から日目上人への譲り状である『日興跡条々事』を拝し、御文に込められた意義の一端を拝したいと思います。
日蓮正宗の公式な年表である「富士年表」には、「元徳二年十一月、日興跡条条(ママ)の稿を草す」とあります。さらに、「元弘二年十一月十日 日興 日目に日興跡条々(ママ)事を与え本門弘通の大導師と定む」
と記されています。「稿を草す」は下書きのことですから、日興上人は元徳2年(1330年)11月に下書きをされたものを、2年後の11月10日に成文にされたものを日目上人に授与なさったことがわかります。
ちなみに、元徳2年(1330年)と元弘2年(1332年)の間にあたる元徳3年(1331年)は日蓮大聖人様の50回遠忌の年です。
弘安3年(1280年)1月11日に、日蓮大聖人様が日興上人に御法門の御相伝をされた「具謄本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)』には、
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」 (御書1,699㌻)
「日興が嫡々相承の曼陀羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」 (御書1,702㌻)
とあります。この百六箇抄の御文について、第26世日寛上人は『文底秘沈抄』のなかで次のように仰せです。
「百六箇に云わく「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべし乃至何の在処たりとも多宝富士山本門寺と号すべし』云云。嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事なり。故に御遺状に云わく、「日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の大本尊は、日目に之れを授与す。本門寺に掛け奉るべし』云云。故に百六箇の文意は本門戒壇の本尊所在の処を本門寺と号すべし」
(『六巻抄』67㌻)
と解釈してくださっております。
ここに記される「御遺状」は『日興跡条々事』のことですから、百六箇抄の「日興が嫡々相承の大曼荼羅」は弘安2年の大本尊、つまり本門戒壇の大御本尊様のことを指し示されていること、さらに、「三大秘法建立の場所は、富士山本門寺」とのお言葉であるから、本門戒壇の大御本尊様が御座します処を本門寺と号すべきである旨を、大聖人様が御教示である、ということです。
このように、弘安3年に大聖人様から日興上人への御相伝書の『百六箇抄』と、日興上人が約五十年後に御認めになられた日目上人への御相伝書である『日興跡条々事』とが、お示しの内容において相違のないことが明らかです。このことからも、私たち日蓮正宗のみが、大聖人様の教えを正しく受け継いでいることがおわかりになると思います。
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『卿公御返事』(歴代法主全書1・109)
(原文)
貴札の旨委細に見参候了んぬ。
抑も御祖母西光寺尼御前の御孝養の事、まつとみの入道殿の御状一見を加へ候了んぬ。
新田尼御前御書状の趣、この法門の旨此くの如く聴聞し明きらめて候へば、各々の念仏をもせいしとめまいらせて、法華経をもて孝養しまいらせ給べきむね申さんとし候ところに、可様に仰せ給て候事存知のむねに候。いつもよりあそばされ候はんずらんとおぼえ候へ。
上野殿の御文には、法門は仰あるまじき理にて候へば、くはしからず候。尼御前の御文にはあれよりも念仏にてをわせ給て候へばとみへて候。
それについてもっともこのほうもんのようをかく聴聞して候時にてあるべくとおぼえ候ば、聖人の御存知因幡公の追出せられ候し時、下山の消息をあそばされて候し御心にて候ベし。
又ねんぶつに寄り合い給わずば、おやの跡いかがとおほうされたりけに候。法華経にてをやの孝養して候子が不孝になりて、をやのあとを領知候まじき事の候べきやらんと、一言あるべく候らん。
法門のちがいめは、御存知の上はにて候。ただいかにも大むげんじごくと候いて聖人のご本意を叶はせ給へしと覚え候。
この御仏事の次に法華経動執生疑候はんずる事悦び入り候。
御返状の案文は給ひ候てみまいらせ候べく候。恐々謹言。
十一月十三日
日興 花押
謹上 卿公御房御返
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(現代語訳)
お手紙を詳しく拝見いたしました。
御祖母・西光寺尼御前の法事について、まつとみの入道殿の手紙を拝見いたしました。
新田尼御前のお手紙には、大聖人様の御法門を聴聞してよく理解できたので、各々が念仏をやめ、法華経によって追善供養をするように申しあげようと考えていたところ、(入道より)このような仰せがあることは、先刻承知のことです。故に、これまで以上に強盛に励んでまいりましょう。
上野殿のお手紙によれば、(入道は)法門について筋道を立てた話もできない、とありました。また、尼御前のお手紙には、(入道は)さらに念仏を強盛にしている、とあります。
それにしても、大聖人様の信心をするにあたって思い起こされることは、因幡房が地頭の下山殿を折伏したことで、住処を追われた時に、大聖人様が、「『下山御消息』を認めてくださり地頭を折伏をされた御振舞です。
また、(入道より)念仏の信仰をしないならば親の跡を継がせるわけには行かない、といわれたようですが、法華経で親の法事をする子供が親不孝といわれ、領地を譲らないということでしょうか、と一言申し上げるべきです。法華経と念仏の法門の違いは御存知の通りです。ただ、念仏は大無間地獄に堕ちると折伏をすることは、大聖人様の御本意に叶う信心であることを覚えます。
この度の法事を契機に、法華経に説かれるように、動執生疑がおきたことに悦んでいます。
御返事のお手紙の下書きをお送り下さい。目を通して差し上げましよう。
十一月十三日
日興 花押
謹上 卿公御房御返
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〔語句の意味〕
〇卿公=日目上人のこと。
〇西光寺尼御前=妙法尼のことと思われる。日目上人の祖母。
〇御孝養の事=西光寺尼の忌日の法要のことを指すと思われる。
〇まつとみの入道=西光寺尼御前の関係者と思われるが、詳細は不明。文面からすると、念仏の信仰者で、日目上人の生家の新田家で、何等かの立場にあったようである。
〇新田尼御前=日目上人の母。蓮阿尼。南条時光の姉。
〇この法門の旨=日蓮大聖人様の御法門のこと。
〇上野殿=南条時光。
〇因幡公=因幡房日永のこと。甲斐国(山梨県)下山の地頭・兵庫光基(ひょうごみつもと)の氏寺である平泉寺の住僧。日興上人より折伏を受け大聖人様の門下となり、地頭の光基を折伏したことで平泉寺を追い出された。
〇下山の消息=『下山御消息』(御書1,137㌻)のこと。前述のように因幡房が追い出された時、大聖人様は直ちに『下山御消息』を御認めになり因幡房に代わって光基を折伏された御書。折伏を受けた光基は入信したが、残念なことに日興上人が身延を離山されるにあたっては、因幡房とともに謗法の日向の側につき退転した。
『下山御消息』では、下山兵庫の信仰である念仏を厳しく破折され、法華経を持ち釈尊を尊重しても、念仏などを信仰するなら、無間地獄は免れないことを強調されている。さらに、世間法では、子は親に、臣下は主君に、弟子は師匠に随うべきであるとするが、経文には「恩を棄て、無為に入るは真実に恩を報ずる者なり(親などから受けた恩を棄て、覚りを得ることこそ誓実の恩に報いる者である)」とあることを示される。その現証として、釈尊が父の命に背いて出家し、仏と成り父母を導いたことを挙げられ、現世と来世のために念仏を捨て法華経を信仰することを勧められている。
日興上人は『富士一跡門徒存知事(ふじいっせきもんとぞんちのこと)』に、「ー、下山抄一巻。甲斐国下山郷兵庫五郎光基の氏寺平泉寺。直ちに御自筆を以って遣はす。住僧因幡房日永追ひ出ださるゝ時の述作なり(『下山御消息』は、因幡房が平泉寺を追い出された時、大聖人様が直ちに御認め下さり光基に宛てて出された)」 (御書1,871㌻)
と述べられている。
〇動執生疑(どうしゅうしょうぎ)=誤った教えに執着している心を揺り動かし、疑いを生じさせて正法に導く化導方法。
日顕上人はこの動執生疑について「皆さん方も折伏の際、誤った考え方、偏った人生観に執着しておる者の偏見を打ち破って『ああ、やはり正しい信心が必要なのかな』と考えさせる。それがいわゆる動執生疑なのです」(昭和61年10月7日 於広説寺)、「今の世の中の人で正法を聞いても信ずることのできないのは、心になんらかの毒が入っているのです。その毒の命を皆さん方が真剣な折伏によって動執生疑せしめる。そしてその動執生疑の上において、執着がなくなればお題目を唱えることができる。そこで自他を不幸にする迷妄の毒がなくなっていくのであります」(昭和62年9月10日 於大宣寺)等と教えてくださっている。
『日興跡条々事』から、大聖人様が日興上人へ本門戒壇の大御本尊様を御相承されたことと、その大御本尊様を日興上人は日目上人に御相承遊ばされたことを拝することができました。
『卿公御返事』からは、亡くなった御祖母・西光寺尼御前(妙法尼)の法事を、法華経による追善供養か念仏による供養かでまつとみの入道との間に意見の相違があったことがわかります。
ここで、宛名書きに「卿公」とありますので、日目上人の得度間もない頃であると思われます。日目上人の得度は建治2年(1276年)17歳でした。
仮に、このお手紙が建治2年のものであるとすれば、妙法尼の法事は十三回忌だったことが推察されます。これは文永元年(1264年)9月4日の「新田家譲り状」から、文永元年には、妙法尼(西光寺尼御前)も重綱も死去していることがわかるからです。
この十三回忌を執り行うのは、本来であれば嫡子の重綱ですが、前述のように重綱も死去し、残された子供たちも若いことから、妙法尼に関わりの深い人物(まつとみの入道)が口を挟んできた、という構図が浮かび上がります。しかも、念仏を強盛に信仰していたとなればなおさらです。
そこで、日目上人は師の日興上人に指導を仰いだのではないかと拝察されます。
日興上人は、大聖人様の信仰を貫く上から、日目上人をはじめとする新田家の人々を強く鼓舞し、闘い方を指導する目的でこの手紙を認められました。
このお手紙は、信仰を巡る厳しい法戦の真っ只中で交わされた書状であるということです。入信間もない頃の南条家や新田家を取り巻く環境が厳しかったことがわかります。念仏無間との教えを堅く守り、折伏に励む時には法難が重なりますが、それは想定内のことであると信心を励まして下さっています。
法事だけでなく、領地の継承をちらつかせて、法華経の信仰を妨げようと威圧的な手段に出る者に対して、一歩も引かずに闘うこと、それが亡き方への最も尊い孝養になることを述べられ、日蓮大聖人様の弟子檀那としての覚悟と闘う姿勢を明確に示してくださっています。
また、因幡房が地頭を折伏したことで住む所を追い出された時に、大聖人様が『下山御消息』を御認め下さり因幡房を助けたことを引き合いに出され、日興上人が代わりに手紙を書いてまつとみの入道を折伏し、卿公や蓮阿尼を守ります、というありがたい激励の御文だと拝します。
さらに、念仏を「大無間地獄に堕ちる」と折伏することが、大聖人様の御本意に叶う信心であると強調し、一歩も引かずに折伏をするように励まされています。
最後に、動執生疑が起きたことで、かえって大聖人様の教えの正しさを証明し、信仰を深める「契機」になると喜ばれ、返事の案文を書いてくださると仰せになり文を結ばれます。
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〔南条家と新田家〕
日目上人のお祖母様の名前が、西方極楽浄土に由来すると思われる「西光寺尼御前」とありますので、大聖人様の信仰をする以前は、念仏の信仰をしていたことが想像されます。
日目上人のお父さんの名前は、新田五郎重綱さんです。現在の静岡県伊豆の国市と宮城県登米市に領地を持つ鎌倉幕府の御家人でした。
重綱さんは同じ伊豆でのご縁からでしょうか、南条時光さんのお姉さんの蓮阿尼と結婚し、6人の男の子の親となりました。日目上人は5番目の男子として、文応元年(聖寿39-1260年)に現在の伊豆の国市・畑毛で誕生されました。したがって日目上人にとって時光さんは叔父さんになります。ちなみに、日目上人の二つ上のお兄さんである新田次郎頼綱さんの次男が、総本山第4世日道上人です。
南条家の信仰は、時光さんや蓮阿尼のお父さんである南条兵衛七郎さんが、鎌倉で大聖人様より折伏を受けて入信したことにはじまります。新田家が大聖人様の信仰をするようになった縁は、兵衛七郎さんの折伏であろうと思われます。
『南条兵衛七郎殿御書』(御書321㌻)や『卿公御返事』から、南条家も新田家も大聖人様の信仰に改宗する以前は念仏を信仰していたことがわかります。
日本中の多くの人々が、無間地獄への道を突き進んでいた時代に、南無妙法蓮華経と題目を唱えることは勇気のいることだったでしょう。また、時光さんのお母さんの上野尼は、実家の松野家や時光さんのお姉さん(重須殿女房)の嫁ぎ先である石川家などを折伏しています。
南条家や新田家の折伏の姿は、法華講衆の後輩である私たちに対する信心の熱いメツセージです。日蓮大聖人様の教えを堅く守り、御本尊様の大功徳を確信し、勇気を持って自他共の幸せを願い前進しましょう 一必ずご加護があります一 と。
急に寒くなり驚いています。体調を崩しやすい季節です。暑いのも困りますが、寒いのも得意ではありません。ほどほどの気候であって欲しいと凡夫の心です。
『最蓮房御返事』には、
「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光土の都たるべし」 (御書588㌻)
とございます。暑くても寒くても、御本尊様を受持し、御本尊様の信仰に励む「一乗の修行者」の住むところは、仏様と共にある国土です、とのお言葉です。暑い寒いと愚痴りながらも、この地こそ仏様の国土だと思い定め、共どもに精進を重ねましょう。まだまだ寒くなります。お体を大切になさって下さい。ご祈念申し上げます。
(朔日講〔聖寿804年11月1日〕にて)