• 東京都杉並区西荻窪の「日蓮正宗佛乗寺」の法華講が運営するWeb Pageです。Web Page「日蓮正宗向陽山佛乗寺」(http://www.butujoji.jp/)は、姉妹サイトとなります。

「十二因縁御書」

『十二因縁御書』 康元元年 35歳 御書53㌻

凡そ成仏とは、我が身を知るを仏に成るとは申すなり。我が身を知るとは、本よりの仏と知るを云ふなり。

〔成仏とは我が身を知ること〕

成仏とは、我が心のありさまを知ることです。我が心のありさまを知ることとは、我が心に尊い仏の心が具わっている、ということを知ることです。

『上野殿後家尼御返事』

夫(それ)浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、たヾ我等がむね(胸)の間にあり。これをさと(悟)るを仏といふ。これにまよ(迷)ふを凡夫と云ふ。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ

(御書336㌻)

(現代語訳)

浄らかな国土も苦しみの世界である地獄界も、別の所にあるのではありません。私たちの命の中に存在するのです。この道理を詳しく知る者を仏といいます。この道理に迷う者を凡夫といいます。この道理を知ることができる教えが法華経です。したがって、法華経を持ち奉る者は、苦しみの世界である地獄界が、そのまま仏の国土である常寂光土になる、と知ることができるのです。

『十字御書』

抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候

(御書1,551㌻)

(現代語訳)

そもそも苦しみの世界である地獄界と、仏の世界とはどこに存在するかを尋ねてみますと、ある経文には、地獄は大地の下とある、と説かれています。またある経文には、仏の世界は西方の極楽浄土にある、と説かれています。しかし、詳しく調べて見ますと、私たちの五尺の身体の中に存在することが説かれています。

 『十二因縁御書』は宗旨建立から3年後の康元元年(1256年)、大聖人様御年35歳の時のものです。『上野殿後家尼御前御書』は文永2年(1265年)44歳の時に御認めになられました。『十字御書』を御認めになられたのは、弘安4年(1281年)60歳の御時です。

 これらの御文で、仏も地獄も私たち衆生の心の中にあることを教えてくださいます。そして、このことを知ることが仏なのである、と。

 しかし、『観心本尊抄』に、

然(しか)りと雖も我等が劣心(れっしん)に仏法界を具すること信を取り難き者なり(乃至)人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚(はなは)だ信じ難し」(御書648㌻)(意訳・「そうはいっても、私たち凡夫の未熟な心の中に仏様の境地が備わっていると信じることは簡単ではありません。(中略)人間界の中に仏界が具わっているというのは、水中で火が燃える、あるいは燃えさかる火の中に水が存在する、と言われているようなもので、非常に信じ難いことなのです)とあります。

 このように、法華経で説き明かされた究極の真理である「一念三千」を信ずることが何に難しいことであるかを教えてくださっています。

〇理の一念三千と事の一念三千

 話が前後しますが、『十二因縁御書』の「本(もと)よりの仏と知る」とは、私たち凡夫の生命にも「仏の生命がある」と知ることです。これを教えてくださるのが「一念三千」の法理です。この一念三千にも「理の一念三千」と「事の一念三千」があることはご承知の通りです。

◇理の一念三千

 「理の一念三千」は理論としての「一念三千」であり、「一念三千」という仕組み・法則を理屈として理解することだといえます。換言すれば、すべての人に仏性があり、仏に成ることができる、凡夫の一念に宇宙のあらゆる現象(三千の世界)が具わっている、という「道理」を頭で理解することです。したがいまして、まだ実践や体験には至っていない、理論的理解のレベルなのです。

◇事の一念三千

 それに対して、「事の一念三千」は、私たちの実際の生活・体験としての「一念三千」です。理屈として知るだけでなく、現実の中で体験し、実践すること、私たちの一念の働きが、自分の言動や周囲の出来事として実際にあらわれる(=事実として現れる)ことを意味するのです。私たちの日常の一瞬一瞬の心のあり方が、そのまま自身の環境や人生の姿をつくっていく、ということを“現実の姿として”理解し、感じ取れるようになることだといえます。

 ところが、末法の私たちにとって、『観心本尊抄』に説かれるように、「理の一念三千」さえも「難信難解事」なのですから、「事の一念三千」を理解し、現実の姿として感じ取ることなど不可能に近いことだといえます。

〇日蓮大聖人様が御出現された目的

 そこで末法の私たちに「事の一念三千」を教え、真の幸福境界を築かせることを目的として日蓮大聖人樣は御出現されたのです。

◇事の一念三千は行動・実践の教え

 日蓮大聖人樣は、我が身・我が心が尊いことを理解し、理解するだけではなく我が身・我が心を現実の尊い身であることを現す唯一の方法として、三大秘法の御本尊様を建立してくださいました。そして、この御本尊様を自らが受持するだけではなく、他の人々に教え導くことで、我が身・我が心が尊い当体であることを自覚できるようになります、と折伏の仏道修行を教えてくださっています。

 以上のことを踏まえ、今月の拝読御書である『十二因縁御書』の一節を拝してみたいと思います。

〇我が身を知る

 私たちの生命には、喜びや慈しみだけではなく、怒り・迷い・弱さなど、十界のすべてが刻まれています。その中心が言うまでもなく「仏界」です。

 したがって、「我が身を知る」とは、自分の中に存在する仏界と、迷いの九界の両面あることを自覚し、生命の本質を正しく見極めることにほかなりません。

◇我が身を知らぬ時一迷いは膨らみ、苦悩は深くなる

 私たちは苦境に立つと、往々にして自分を否定的に見るようです。「私の人生はこういうものだ」・「どうせうまくいかない」と、現在の姿が“自分のすべて”であるかのように感じるのです。

 しかし、それは「我が身の一部」しか見ていない状態だといえます。たとえば、雲が太陽を隠すと、空が暗く見えるように、一時の苦悩が私たちの本来の姿を覆い隠してしまうのです。このような時には、怒りはただの衝動になり、不安はただの弱さと現れ、悩みはただの苦しみにしか思えません。怒りや不安や苦悩に潜む意義に気づくことができないからです。このような状況にある時が、「我が身を知らぬ時」です。

◇我が身を知れば一苦悩の中に意義を見いだすことができる

 大聖人様は、「変毒為薬」・「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」等の言葉で私たちを励ましてくださいます。

 苦しみの中に楽しみがあり、迷いの中に覚りがあり、悪しきことが善きことに変わる例は日常生活の中で誰しもが経験することです。

 怒りの心が起こるのは、「正しくありたい」とか「守りたい」という思いがあるからであり、不安な思いの裏には、「より良く生きたい」という願いがあります。悩みは、前進しようとする心があるからこそ生まれるのではありませんか。

 このような私たちの感情の奥にある働きに気づくことこそ、「我が身を知る」ことであり、仏の智慧が現れた時です。このようなことに気づいた時には、同じ悩みを抱えていても、受け止め方が大きく変わります。苦は単なる苦しみではなく成長へのステップであり、暗闇の中にも一条の光が見えてくるのです。

〇成仏とは、自らの生命に仏が御座しますことを自覚し、日常の中で味わうこと

 人に優しく接しようとする心や、苦境にもくじけず歩もうとするカや、怒りを正義に、不安を工夫に変えようとする働き、このような日々の営みの中に、仏の智慧が現れます。仏の法は私たちの遠い外側にあるのではなく、我が心の内奥に息づくカとして存在しています、これを知ることが「我が身を知る」ことであり、成仏の境界である、と申し上げることができます。

〇未入信の方へ

 向陽を読んで下さっている方の中にはまだ信仰をもたれていない方もおられるかもしれません。

 仏法というと、難しい教義や特殊な儀礼を思い浮かべる場合もありますが、仏様の教えは、人生の根本を照らす普遍の智慧であり、誰にでも開かれた真理です。成仏とは、限られた人だけが到達する境涯ではなく、一切衆生に平等に具わる仏性に気づき、気づきを形に現すことです。

 その第一歩が、「我が身を知る」という深い内観です。この内観は、凡夫の心を中心とした内観ではなく、仏様の当体である御本尊様に手を合わせ、南無妙法蓮華経と唱えることで得ることのできる内観です。

〇薬であっても、良薬にもなれば毒薬にもなる

 万能薬であっても、用い方によって薬にも毒にもなります。薬にするためには処方箋にしたがって服用することが大切なように、深い内観を得る場合にも、仏様の示された方法に依ることが大切なのはおわかりいただけると思います。

◇薬は南無妙法蓮華経の御本尊様

 私たちの仏法における良薬は南無妙法蓮華経の御本尊様の教えです。処方箋は日蓮大聖人様が書き残して下さったお手紙です。このお手紙のことを、私たちは「御書(ごしょ)」と申し上げております。

◇大聖人様はお医者様

 医師のお役目は日蓮大聖人様であり、日興上人以来代々の御法主上人が担って下さいます。また、あるときには僧侶、またあるときには法華講衆一人ひとりが医師の役目を果たす場合もあります。つまり、日蓮大聖人様の教えの流れに身を置くことで、いつの間にか仏様の心を我が心とすることが叶うのです。

〇流れの中に身を置けば薬の効能を受けられる

 このようにして日蓮正宗は750年の間少しも変わらない信仰を続けてまいりました。権威や権力におもねることもなく、自らの幸せと周りの方々の幸せを願って、御本尊様一筋の信仰を貫いております。創価学会や他の新興宗教のようなこともなく、伝統教団とされる真言宗や念仏宗のように途中で教えを変えたこともありません。これからも不変の信仰です。ご安心下さい。

〇結び

我が身を知るところから、人生が照らされる

 私たちは、自分の生命の奥深さに思いを致すとき、そこに無尽の可能性と力が宿っていることに気づきます。苦悩に心を曇らせることもありますが、大聖人様の御教えに照らして「我が身」を見つめれば、その中に確かに仏様が御座しますことに気づくことができます。成仏とは、遠い未来にある理想ではなく、この瞬間の生命の真実に気づきながら歩む道であるといえます。

 新しい年を迎えるに際しての大切な12月です。良き年を迎えるためにも、御信心第一にした日々の生活で「我が身を知る」歩みを深め、穏やかで充実した時を共に過ごしてまいりましょう。皆さまのご健勝を御祈念申し上げます。

朔日講〔聖寿804年12月1日〕にて