彼岸会(令和8年3月)
『上野殿後家尼御返事』 文永2年(1265年) 御書388㌻
いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし 古徳のことばにも 心地を九識にもち 修行をば六識にせよとをしへ給ふ
【現代語訳】
たとえどのようなことがあっても、亡くなられた方への追善供養は、真心を尽くして励みなさい。古の高徳な人の言葉にも、『信心は生命の最も奥底(九識)にしっかりと定め、仏道修行は日々の具体的な振る舞い(六識)として現していきなさい』と教えられています。
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【語句の説明】
〇追善供養(ついぜんくよう)=あとに残された者が、日々「善根(良い行いと祈り)」を積み、その功徳を亡き方へ送り届けて(回向して)、共に成仏を願うことです。私たちの真心の祈りが、時空を超えて亡き方の生命の輝き(善い報い)となっていくことをいいます。
〇心のおよぶほど=「自分の力が及ぶ限り」「精一杯のまごころを込めて」という、ひたむきな姿勢を指します。形や量ではなく、亡き人を想う「真心の深さ」を大聖人は重んじられました。
〇九識(くしき)=仏教では、私たちの心の深層を九つの階層で説き明かします。日常的な心の動きである「六識」のさらに奥底にあるのが、第七・末那識(まなしき)、第八・阿頼耶識(あらやしき)、そして第九の阿摩羅識(あまらしき)です。この「九識」こそが、何ものにも揺るがない清らかな「仏の境地」であり、私たちの生命の根本に、尊い仏の心が等しく具わっていることを示しています。
〇六識(ろくしき)=眼・耳・鼻・舌・身・意(意識)の働きのことです。私たちが日々、目で見、耳で聞き、心で考える「日常生活の営み」そのものを指します。周囲の情報をありのままに受け止め、識別する日常の振る舞いがこの「六識」にあたります。
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【本抄の心】
この御文は、亡くなられた方への追善供養に真心を尽くす大切さと、私たちが持つべき信仰の姿勢を教示されたもので、その核心は「信心は深く、行動は着実に」という点にあります。
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ー、生命の奥底「九識」と追善供養
仏教では、私たちの心の働きを「識」と呼び、深層心理の奥底までを九つの階層で明かしています。その上で、追善供養も単なる儀式ではなく、遺された私たちが「亡き方と共に成仏せん」との強い願いを生命の最も深い次元である「九識(仏の境界)」に定め、一心に南無妙法蓮華経と唱える仏道修行を勧めます。その時に、私たちの生命そのものが仏の輝きへと変わり、その生命の輝きこそが、時空を超えて亡き方々へ届けられる最高の贈り物となるのです。皆様が真心を込めてお題目を唱えるとき、その功徳はまっすぐに亡き方へと届きます。
「自分の姿は見えずとも、物言わぬ故人を想う、そのような優しい心根の子や孫、縁者を持てたことが何よりも嬉しい」と。今、亡き方はそう感じ、皆様の姿を暖かく見守っておられるに違いありません。その感謝の微笑みが、今度は私たちを照らす光となって、日々の暮らしに安心を与えてくれるのです。
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二、迷いの世界を照らし、私たちの日々を安穏へと導いてくださる「御本尊・大白牛車」
現代社会を見渡せば、戦火や物価高騰など、将来への不安が絶えない様を、法華経には「火宅(火に包まれた家)」のようなものである、と説かれます。しかし、この苦しみの門前に、私たちを安全な境地へと導く「大白牛車(だいびやくごしや)」が備えられているとも説かれています。末法の今日、大聖人はこの大白牛車を「南無妙法蓮華経の御本尊」として顕してくださいました。故に、御本尊を御守りする私たちは、すでにこの救いの車に乗り合わせ、仏の境地へと向かう道を歩ませていただいているのです。
不安の絶えない時代であるからこそ、いっそう信心を深め、共に仏道修行に励んでまいりましょう。本日の皆様のご参詣、その尊き志こそが何よりの功徳であると確信いたします。最後になりましたが、檀信徒ごー同の益々のご健勝と、ご多幸を心よりお祈り申し上げます。