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「当体義抄」

『当体義抄』  文永10年 52歳 (御書694㌻)

正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。

= 悩みや苦しみを 楽しみや喜びに変えることのできる仏法 =

素直な心で法華経を信じ、一筋に南無妙法蓮華経と唱える人は、煩悩や悪業や苦しみなどが、仏様の身に具わる三種類の徳に変わり、空・仮・中の三種類の悟りが私たちの心の中にあることに気づきます。一筋に南無妙法蓮華経と唱える人の住む所が、仏様の住む常寂光土です。

《語句の意味》

○正直=世法では、うそやごまかしのないこと、素直で正しいことなど。仏法では、仏の本来の願い、本心に添うこと。また添うように行動すること。『北条時宗への御状』では「日本の国を守護する役目の諸天善神は、法華経によってその身を養い、仏の本心に従うことで力を発揮する(趣意)」(御書371㌻)とあります。「正直捨方便」の経文から、爾前の教えである念仏や真言を捨てて、法華経を持つことが仏の本心であることは言うまでもありません。

○方便=理解の浅い人々を真実の教えに導くために用いる便宜的な教え、手段のこと。仮の教え。法華経には、「三車火宅の譬え」や「化城宝処の譬え」や私たちが毎朝夕読誦する「良医と病子の譬え」も方便が用いられています。

○法華経=法華経には迹門と本門があり、本門にも文上と文底の違いがあります。ここで仰せの法華経は文底の法華経のことです。

○南無妙法蓮華経=前述の、文底の法華経の題目のことです。『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(御書526㌻)と示されております。ここで示される「一念三千の法門」が「文底秘沈の法門」で、久遠元初の御本仏日蓮大聖人様の御悟りです。この「文底秘沈の法門」こそ末法の私たちが幸せになるための唯一の教えです。さらに『草木成仏口決』を拝しますと、「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり」(御書523㌻)とございます。この御文から、久遠元初の御本仏の御悟りを「南無妙法蓮華経の大御本尊様」として建立下さったことがわかります。大聖人様の御入滅後は、唯授一人の御付嘱を受けられた代々の御法主上人が、私たちのために大御本尊様を御書写あそばされ、法華講衆に御下附下さいます。ゆえに、お寺やご家庭に御安置の御本尊様に手を合わせる私たちが、この御文にあります「南無妙法蓮華経と唱える人」なのです。

○煩悩=私たちの身と心を煩わせ悩ませる精神的な用きのことです。その元にあるのが貪・瞋・癡の三毒です。食べ物やお金や地位や名誉などを際限なく貪る心を貪欲といいます。お腹いっぱいになってもさらに食べたくなるのが人間です。動物はお腹いっぱいになったら食べません。そうすると人間の方が欲が深い、貪欲が盛んであるといえますね。次の瞋は怒りです。自分の心に違うものに対し、怒りや妬みや嫉みをもつことです。瞋の字は目をむいて怒っている状況をあらわしているのだそうです。癡は愚癡のことです。物事の道理、筋道がわからないことをいいます。愚は心が明らかではないことですから覚りの反対です。癡は疑にやまいだれですから、疑う心が少ないのでしょうか。疑うことは向上心の表れだと考えると、覚りへの道を放棄している状況を表しているように思える「愚癡」です。したがって知能が低いとか高いという意味での言葉ではないことはたしかでしょう。日寛上人は「疑いは覚りの津(わたし)」と仰せです。津は重要なところとか、渡し場という意味があります。つまり、日寛上人は妄信を戒め、念仏や真言の教えが正しいのだろうか、と疑問を持つことが覚りへの道である、と教えて下さっているのです。疑問は解決してまいりましょう。心に留めておくことのないようにしたいものです。

○業=業についていえば、身と口と意で為す業がよく知られております。身・口・意の三業のことです。これは、自らの意志により身体を動かすことで、未来に受ける結果の原因を作っていることを言います。ですから業因ともいいます。この業因にも善因と悪因があります。善いことをすれば善い結果になることを「善業」。反対が「悪業」ですから、悪い結果を受けないために善いことをするように心がけたいものです。さらに過去世の業因を「宿業」、現世での業因を「現業」といいます。したがいまして、現世での境遇は過去世の業因の結果です。幸せである、満ち足りている、と思える境遇は過去世に善い業因があるのです。

現業について、『御講聞書』には、

我等衆生の一日一夜に作(な)す所の罪業(ざいごう)、八億四千の念慮を起こす。余経の心は皆三途(さんず)の業因と説けり。法華経の心は此の業因即ち仏ぞと明かせり。されば煩悩を以て如来の種子とすと云ふは此の義なり」(御書1,836㌻)

とあります。仰せの意は、わたしたちは一日に八億四千もの浅はかな思いを巡らします。その浅はかな考えが種々の業因となり、その結果として三途(この三途は三悪道のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界)に生まれる、と説くのが法華経以外の教えです。反対に、浅はかな考えしかできない私たちでも仏になることが叶う、煩悩に支配された心を仏の種子に変えることができるのが法華経です、というものです。「煩悩即菩提」の教えです。悩みや苦しみがあるのが私たち衆生であり、それを否定するのではなく、悩みや苦しみを仏道修行の炎とすることで功徳を受けることができる信仰が日蓮正宗です。過去世の悪しき業因を善き業因に変換し、現世で幸福境界を受ける功徳を信じようではありませんか。

○苦=煩悩と業が原因となって受ける苦しみのことです。

○三道=先にありました煩悩と業と苦の三つが、あるときは因となり、あるときは果となって相互に関係して現れ、迷いの生死生死を繰り返すことからこのようにいいます。

○法身=ありとあらゆる物事に具わる永遠不変の真理を悟る身のことです。言い換えれば仏様の御身といってよいと思います。

○般若=悟りの智慧、つまり真実の智慧のことです。仏様の智慧ということです。

○解脱=現世の迷いから解き放たれ、生死の苦しみを脱した境界。仏様の境界ですね。

○三徳=法身・般若・解脱の三種類の徳を兼ね備えているので三徳です。三徳を兼ね備えられたのが仏様です。

○三観・三諦=三諦はすべての物事を空諦・仮諦・中諦の三つの面からあらわしたものです。三観は一心三観のことです。この一心は私たち衆生の心ですから、私たちが、すべては空・仮・中の三諦であることを観じることをいいます。三観や三諦は天台で説くもので、私には実に難解難入です。そこで大聖人様がどのように教えて下さっているかを拝しますと、『御義口伝』の『法華経方便品第二』にある「一大事因縁」を解説して下さる箇所に、「一とは中道、大とは空諦、事とは仮諦なり。此の円融三諦は何物ぞ。所謂南無妙法蓮華経是なり」とございます。つまり、空仮中の三観三諦は南無妙法蓮華経であり、私たちが御本尊様に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えることだと理解できます。

○常寂光土=大聖人様は『守護国家論』で、「法華経を修行する者の浄土は何処ですか、との質問に、寿量品の、我常在此娑婆世界・我常住於此・我此土安穏を挙げられ、久遠の御本仏はこの世界(娑婆世界)に御座しますのであるからこの世界が浄土である(趣意)」と教えて下さっております。2月拝読御書でも学びました、「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光土の都たるべし」(『最蓮房御返事』御書588㌻)を思い出して下さい。御本尊様を御護りし、自行化他のお題目を唱える私たちの住むところが「常寂光土」であることを忘れないようにいたしましょう。辛いことがあっても、苦しくどこかに逃げ出したいと思うようなことがあったとしても、この世界が最高の世界である、常寂光土だと思い定めましょう。思い定めることで、辛いことや苦しいことが楽しみや悦びに変わります。

◇先月号で『当体義抄』が「証の重」の御書であることを学びました。証は現証のことです。功徳の現証、功徳を証(あか)されているからです。今月拝読の箇所がその中心の部分です。正直な心で正直な教えを信仰することの有り難さ、尊さを教えて下さる御書です。

(朔日講〔聖寿801年3月1日〕にて)