『法華題目抄』 文永3年1月6日 45歳 御書360㌻
妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり。
◇日々こころ新たに
妙法蓮華経は蘇生の教えです。妙法蓮華経は命をよみがえらす教えです。
当抄は別名『法華経題目抄』とも称されます。日蓮大聖人様が文永3年(1266年)1月6日に安房(千葉県)の清澄寺(せいちょうじ)で御認めになりました。大聖人様45歳の御時です。
総本山26世日寛上人は『法華題目抄文段』で、「この誡勧二門、別して当世の女人に約することは房州天津の伯母御前へ遣し給う御抄なるが故なり。彼の人は念仏の執情甚重なる人なり(中略)且らく念仏執情の女人に対する故に一往台家の法門を以て之を誘引したもうなり」 (文段集685㌻~687㌻)
と述べられ、念仏に執着する大聖人様の伯母御前を折伏された御書である、とご教示です。
御眞蹟は勿体ないことですが断簡となって各所に伝えられております。なお第三祖日目上人が書き写されたものが宮城県栗原市の妙教寺に厳護されております。日寛上人は『当体義抄文段』の中で、御相伝の上から甚深の御法門を末代の私たちにご教示下さっております。
その文段には「この題号に於て三箇の秘法を含むなり。謂く、『法華』の二字は所信の体、即ちこれ法華経の本門寿量文底下種の本尊なり。『題目』の二字は能唱の行、即ちこれ本門寿量文底下種の題目なり。所住の処は即ちこれ久遠元初の本門の戒壇なり」と『法華題目抄』の題号に三大秘法が含まれている、とあります。
御文の「法華の二字は所信の体」は、信ずる処、つまり私たちが信じて手を合わせる本体ですから御本尊様のことです。御本尊様は法華経で説かれる一念三千を書き顕されたものであることは「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり」(『草木成仏口決』御書523㌻)を拝するまでもありません。その一念三千は「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(『開目抄』526㌻)とありますように法華経の文底の教えです。したがいまして、「法華」の二文字が〔本門の本尊〕である、と示されるのです。
次の「題目の二字は能唱の行」の能唱は〔よく唱える〕ことです。たくさんお題目を唱えるのも〔よく唱える〕ことになります。短い時間でも真剣に唱えることができれば〔よく唱える〕ことです。何よりも、疑わずに固く信じて唱えることが〔よく唱える〕です。何を信じるかといえば、日蓮大聖人様のお言葉です。大聖人様のお言葉を信じて南無妙法蓮華経と唱える行が、本門文底下種の南無妙法蓮華経を唱えることになるのです。行は、おこない、行為、行動などの意味があります。仏教では修行のことですから、南無妙法蓮華経と唱えることが成仏への修行であることはいうまでもありません。成仏への題目は、身延派の日蓮宗や新興宗教となった創価学会員が唱える、浅い教えの南無妙法蓮華経ではなく法華経本門の底に秘し沈められた南無妙法蓮華経です。ゆえに、「題目」の二字は〔本門の題目〕であることが明らなのです。
本門の本尊を御安置申し上げる処がそのまま〔本門の戒壇〕となりますので、題号の『法華題目抄』に三大秘法の意義が含まれる、と日寛上人は教えて下さるのです。
【信ずること】
当抄の
「夫(それ)仏道に入(い)る根本は信をもて本とす」 (御書353㌻)
について、
『法華題目抄文段』(文段集655~656㌻)には次のようにあります。
〔以下要約〕
質問いたします。天台大師は『法華文句』で「疑い無きを信と曰う」と述べます。このことについて教えて下さい。
答えます。天台大師は『摩訶止觀』で、「私たちの成仏を妨げるものとして、①自らを疑う、②師を疑う、③法を疑う、の三種類の疑があることを明かしております。これについて妙楽大師は『摩訶止觀弘決』で、「疑うことは良くないことではあるが、疑いの内容をよく考えるべきである。①については、自身を疑ってはならない。②と③は疑ってその後に明らかにすべきことである。もし疑うことがなければ、邪師・邪法に交わることになる。ゆえに、疑問を持って善き師を択ぶべきである。疑うことが解(さとり)の津(わたし)というのはこのことである。師と法が正しければ、法に従って修行に励みなさい。その時に三種の疑いは当たり前であるが投げ捨てるべきである」と解釈しております。
〔以上要約〕
次に①自らを疑う、は原文で拝します。原文で拝することで、日寛上人の仰せがより深く心に入ると思います。後に語句の意味を挙げます。
この文の「自身に於ては決して疑うべからず」とは、凡そ真如の妙理に染浄の二法あり。染法は薫じて迷の衆生と成り、浄法は薫じて悟の仏と成る。この迷悟の二法異なりと雖も、真如の妙理はこれ一なり。譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り、月輪に向えば水を取るが如し。真如の妙理もまたまた是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇えば迷の衆生と成り、善縁に遇えば悟の仏と成る。譬えば人の夢に種々の善悪の業を見て、覚めて後これを思うに、皆我が一心の見る所の夢なるが如し。我が一心は真如の一理の如し。夢中の善悪は即ち迷悟の如し。然れば則ち我が身は即ちこれ迷悟不二、生仏一体にして、真如の妙法蓮華経の全体なり。豈成仏せざらんや。故に「自身に於いては決して疑うべからず」というなり。
【真如の妙理に染浄の二法あり】
真如はすべての存在の真実の姿。永遠不変の真理。真は真実、如は不変。妙理は不可思議な法理。真如の妙理は善悪の縁によって迷いにも悟りにも変化すること。染は、悪に染まるゆえに迷。浄は清浄のゆえに悟り。私たちの心は真実不変であるが、善悪の縁にしたがって迷いとも悟りともなることを教えて下さいます。
【水晶の玉日輪に向かえば火を取り、月輪に向かえば水を取る】
水晶の玉を太陽に向ければ、光を一点に集めて火をつけることができ、気温の低い月夜に、水晶の玉を出しておくと表面に水滴が付くことを、同じ水晶の玉でも、太陽と月夜という縁の違いによって、火にも水にもなることから、私たちの命の中にも火と水のように正反対の命があり、縁によって変わることを譬える。
この御文で、私は凡夫で、迷いばかりで、悪いことしか考えない、と悲観的に捉えるのではなく、我が身は【真如である妙法蓮華経の全体】と自己肯定することを教えて下さいます。嬉しいではありませんか。貴い私たちです。自信と誇りを持って折伏に励みましょう。
②の師と③の法でも「師法の二は疑いて須く暁むべし」とございます。この部分は再び要約します。
「各宗派の開祖はそれぞれ勝手に宗派を立てている。禅宗では仏の教えは文字で伝えられるものではない、という。念仏は、阿弥陀経のみが末法の機根に相応しい、法華経は千に一つの功徳もない、という。真言宗は、一番の教えが大日経、法華経は第三である、という。しかし、釈尊は無量義経で『四十数年間教えを説いてきたが真実の教えは未だ説いていない』とあり、法華経方便品では『これから真実の教えを説く』とあります。これらから、経文と諸宗の開祖たちの説は天地雲泥です。疑わないわけにはまいりません。また、大聖人様の末弟でも同じです。本門と迹門が同じである、釈迦が本仏である等々がそれです。御書には『本門寿量品の肝心』(御書1,140㌻)とあります。大聖人様と違うことをいう身延派などの師を疑うべきです」と。
その上で、(次は原文です)
故に「応(まさ)に熟(よ)く疑い善く思い之を択(えら)ぶべし」というなり。若し一代経の中には法華最第一、法華経の中には本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経の五字七字、正法正師の正義に決定せば、何れもこれに依って応に修行すべし。故に「師と法、已(すで)に正ならば、法に依って修行せよ」というなり。当に知るべし、正法正師決定せば、爾(そ)の時、疑なきことを信というなり。
当体義抄に云く「然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」
とございます。申すまでもありませんが、本門寿量の教主は日蓮大聖人様のことです。日蓮大聖人様のお言葉を信じて、南無妙法蓮華経と唱えることは、凡夫である私たちの命に、仏の命を顕す大功徳が受けられる、と大聖人様がお約束下さり、そのお言葉を日寛上人が教えて下さっているのです。
さて、今月の御聖訓である、
「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」
の後に、
「爾前の経々にて仏種をい(焦)りて死せる二乗・闡提・女人等、妙の一字を持(たも)ちぬれば、い(焦)れる仏種も還りて生ずるが如し」
とあります。これは、声聞や縁覚の二乗、不信謗法の闡提、女人の成仏が法華経に明かされたことを述べられたものです。この御文について日寛上人は、
「此の下は二乗作仏を明かす(中略)意は正に二乗にあり」(文段集683㌻)
と述べられ、当抄に示される「蘇生」の正意は二乗作仏を明かすことにある、とご教示です。
何故ゆえにそのように仰せになるのか、それは続く御文を拝しますとよくわかります。
「天台云はく『闡提は心有り猶作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す、復(また)称して妙と為す』云云」
不信謗法の闡提でも心があるから仏に成ることは可能である。ところが声聞や縁覚は智慧を滅して心も生じない状態になっている。心を滅している二乗も仏にするから妙法なのである、と。二乗が如何に救いがたいかがわかる御文です。
二乗のことを「敗種(はいしゅ)」、「焦種(しょうしゅ)」などといいます。敗種は腐敗した種子、焦種は焦(い)った種子の意味ですから、どちらも芽を出すことはありません。二乗は仏種を完全に失っておりますので、謗法の一闡提よりもなお悪いのです。
大集経には二乗について次のように説かれております。
「人が深い穴に堕ちて自も他者も助けることができないのと同じで、二乗が覚りを得たと思うのは、深い穴に堕ちたようなもので、自も他者も救うことができない」(趣意)と。
『開目抄』では
「二乗は父母に報恩をするために仏道に入り、悟りを得たと思っているが、他人を導く行に欠けている。他人を導くことが少しはあるかもしれないが、父母を永く不成仏の道に入れることはかえって恩知らずになる」(趣意・御書530㌻)
と二乗について仰せです。
このように不信謗法の一闡提よりも救いがたい二乗が救われるのが法華経なのです。ですから「妙とは蘇生の義」と示されるのです。腐敗した種子が蘇る不思議な法なのです。
私たちは御授戒を受け御本尊様を受持し、自らが信ずる大聖人様の教えを周りの人々に伝える修行に励んでおります。他を利益する行がある限り二乗になることは絶対にありません。ゆえに、二乗でさえ蘇生させる妙法の偉大な功力で、苦しみは楽しみに変わり、悩みは悟りとなって現れることは間違いありません。
朝晩の勤行は、蘇生の法である妙法の功力を疑わずに南無妙法蓮華経と唱え我が命を磨く行です。磨かれた新たなる心で日々を生きることができれば、苦難多き現世を楽しみ多き世界に変えることができるようになります。
日蓮大聖人様のお言葉を信じ、利他の行に励んでまいりましょう。
(朔日講〔聖寿802年4月1日〕にて)