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「上野殿御返事」

朔日講拝読御書〔聖寿803年2月1日)

『上野殿御返事』 弘安2年(1279年)4月20日 58歳 御書1,360㌻

<師弟不二>

提婆品を案ずるに、提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二にして法華の深意をあらはす。

法華経の提婆達多品には、提婆達多(だいばだった)は釈尊の過去世の師であり、過去世の師は今世の弟子であり、今世の弟子は過去世の師であることが示されております。この三世にわたる師弟不二を説くことで,法華経の深い教えを明示しています。

 『提婆達多品』は『法華経提婆達多品第十二』のことです。「提婆達多の成仏(悪人成仏)」と「竜女の成仏(女人成仏)」が説かれており、法華経の中でもよく知られております。

 提婆達多品には、「釈尊が過去世に国王だった時、最高の教えを求め『私に完全な教えを授けてくれる人はいないか』と国中に触れを出しました。これに応えて阿私仙という仙人が現れ『私は妙法蓮華経を知っている。私の言うことに背かず、私の教える通りにする覚悟があるならば、教えを授けよう』といいました。国王は阿私仙人の言葉に大いに喜び、仙人のために、木の実を採り、水を汲み、薪を拾い食事の用意をするなどして仙人に仕えました。時には、仙人の椅子代わりにもなりました。このようにして千年もの間仙人に従って修行を重ねてきた結果、私は仏になりました(趣意)」と説かれます。

 さらに、経文は続きます。

「爾の時の王とは、則ち我が身是なり。時の仙人とは、今の提婆達多是なり」と。ここで釈尊は、この時の国王が私(釈尊)であり、阿私仙人が今の提婆達多である、と過去世の因縁を明かされます。

 さらにまた、

「等正覚を成じて、広く衆生を度すること、皆、提婆達多が善知識に因るが故なり」

とあり、釈尊が仏に成り人々を成仏に導くことができたのは、提婆達多が善知識であったからである、と続きます。

※等正覚=仏の十号の一つ。正覚は正しい覚り、等は仏と等しい、つまり仏の意。

※善知識=正しい法を説き、人々を成仏に導く人のこと。

 続いて、

提婆達多、却って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号を天王如来

と説かれております。釈尊を成仏に導いた提婆達多は、無量劫の後に仏に成り天王如来と名乗ることが記されております。

 提婆達多について大聖人様は『主師親御書』(御書50㌻)では、

提婆達多と申すは阿難尊者には兄、斛飯王(こくぼんのう)には嫡子(ちゃくし)、師子王(ししきょうおう)には孫、仏にはいとこ(従弟)にて有りしが、仏は一閻浮提第一の道心者にてましましゝに怨(あだ)をなして、我は又閻浮提第一の邪見放逸(ほういつ)の者とならんと誓ひて、万(よろず)の悪人を語らひて仏に怨をなして三逆罪を作りて現身に大地破(わ)れて無間大城(むけんだいじょう)に堕(お)ちて候ひし」と述べられております。

【『主師親御書』の現代語訳】

 提婆達多は阿難尊者(あなんそんじゃ)の兄であり、斛飯王(こくぼんのう)の後継者で、師子(ししきょうおう・釈尊の祖父)の孫、そして釈尊の従兄弟でした。釈尊はこの世で究極の悟りを求める第一の方でした。提婆達多はその釈尊を妬み、仏法の因果を否定し、勝手気ままに振る舞い、世の中で最も邪悪で非道の者になることを誓いました。多くの悪人たちと結託して釈尊に害を与えました。この時に犯した三逆罪により、生きた身のまま大地の底にある無間地獄に堕ちました。

※道心者(どうしんしや)=道心は仏に成るために修行をする心。究極の悟りを求めて修行をする人のことを道心者といいます。

三逆罪(さんぎやくざい)=①釈尊の多くの弟子が結束して修行に励んでいるのを妨げ、僧団を破壊した(破和合僧・はわごうそう)、崖の下を通る釈尊を目がけて巨石を落とし、落ちてきた石に当たった釈尊の足から血を出したこと(出仏身血・すいぶっしんけつ)。これらの悪業を強く戒めた蓮華色比丘尼を殺害した(殺阿羅漢・しあらかん)。この三逆罪に、殺父殺母を加えて五逆罪(ごぎゃくざい)といい、仏法においては最も重い罪です。

※邪見=因果の理法を否定する誤った考え。よこしまな考え。

※放逸=勝手気ままなこと。

 御書にありますように、仏と成った釈尊が人々を導く上で、大きな障害になったのが提婆達多です。その罪の大きさを「現身に大地破れて無間地獄に随ちて候ひし」のお言葉でお示しくださっております。

 インドの龍樹が著した『大智度論』にも、「提婆達多は自らの貪欲や嫉妬から、釈尊に迫害を加え地獄に堕ちた(趣意)」と記されております。

 このような提婆達多ですが、大聖人様は、

昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二にして法華の深意をあらはす」と御教示になられます。

「能所不二」

 能所は能化と所化のことで、能化は導く立場ですから師匠に、所化は導かれる立場ですから弟子になります。不二は相対する二つのものが実は一つである、ということです。師匠と弟子として見るときには、師弟の二つの立場に分かれますが、妙法を中心にして見れば、師も妙法の功力で仏になり、弟子も妙法の功力で仏になります。つまり、師弟不二も能所不二も妙法蓮華経の前では、どのような立場の人でも、善人も悪人も、男性も女性も、地獄界の衆生も畜生界の衆生も皆平等に仏と成ることができる、ということを教えてくださる言葉が不二、二(に)ならず、なのです。

 平等の成仏を一人ひとりの生命の上から示して下さるのが『当体義抄』の御文ではないでしょうか。

 御本尊様を御護りしてお題目を唱える私たちが受ける功徳について、次のように御教示です。

 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)苦の三道、法身・(はんにや)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじやっこうど)なり」(御書694㌻)と。

 大聖人様の教えを素直に信じ、般若心経や阿弥陀経などの法華経以前に説かれた教典を捨て、御本尊様一筋に南無妙法蓮華経を唱えることを勧めて下さっております。正直な心でお題目を唱えると、日頃の心身をわずらわしたり悩ませたりする全ての精神作用である煩悩や、また私たち人間の身体的な行為、つまり身とロと意(こころ)から生まれる三種の悪業や、さらに私たちの苦しみの根本である地獄や餓鬼や畜生の三種の苦しみが、仏様の身に具わる法身・般若・解脱の三徳に転じる、と仰せです。

法身」は仏様の身そのものです。「般若」は仏様の智慧です。「解脱」は仏様の身と智慧が実現したお姿ですから、三徳が一身に顕れたお姿は仏様そのものです。私たちもこのような尊い姿を顕すことができる、との有り難いお言葉なのです。

 は回転、転換などの言葉がありますように、悪業が善業に変わることです。白と黒に塗り分けたボールを思い浮かべて下さい。黒い面が回転して白い面に変わる。ゆっくり変わる場合もあれれば、瞬時に変わることもあります。「煩悩即菩提」は、煩悩が一瞬の間に悟りに変わることです。反対もあります。くれぐれも瞬間湯沸かし器にならないようにしたいものです。

 「三観三諦即一心に顕はれ」の三観は空観・仮観・中観の三観。三諦は空諦・仮諦・中諦です。三観のは観法のことで、空を観じる、空であると観る、空の教えであると知る、という意味になります。

 はあらゆる存在には固定した実体がないこと。はあらゆる存在は因縁によって、仮にその姿が現れていること、はあらゆる存在は空でもなく仮でもなく、しかも空であり仮であるという、空・仮の二辺を超越したところをいい、ここに不偏の真実があるとします。(空仮中の説明は『日蓮正宗入門』による)

 三諦のはあきらかにする、つまびらかにするということですから、空・仮・中の三観を通して、仏様の悟りの世界をあきらかにすることです。したがって、「三観・三諦即一心に顕はれ」とのお言葉は、お題目を唱える私たちの心に仏様の御覚りが顕れる、ということです。

 ここで留意する点があります。それは「平等」だけに執われてはならない、ということです。『御義口伝』に「二而不二・常同常別」とあり、二つは一つ、ーつは二つ、常に同じですが常に別です、と教えてくださっております。

 不二の教えを自身の権威付けに用いたのが池田大作氏です。「末法において二人目の法華経の行者」と自身のことを位置付けました。しかし、久遠元初の自受用報身如来様が「末法の法華経の行者日蓮」として鎌倉時代に御出現された、と拝するのが日蓮正宗の信仰です。この筋道を違え悪しき平等主義と慢心で大謗法を犯したのです。

【能所不二師弟不二を悪用する創価学会】

 師弟不二を悪しく解釈して「師匠が地獄に堕ちたら弟子も地獄に堕ちる」という教えではないことに注意しなくてはなりません。

 総本山第六十六世日達上人のお言葉を拝します。

 「よく学会の人が間違ったことを言いますね。『師匠が地獄へ行ったら自分も地獄へ行ってもよい』という考えは大変な間違いであります。よく考えなければいけません。そのような考えは、人を信じて法を信じないということであります。もしも師匠が地獄へ落ちたならば、自分が本当の信心によって救ってやろうということこそ師匠に対する報恩であります」(日達上人全集第五巻302㌻昭和54年7月17日)

 日達上人の仰せのように、師弟の道を誤らないようにしなくてはなりません。教える側も教わる側も、過去世の深い因縁に思いを寄せれば、誤った考えをすることもないでしょう。

 これは夫婦であっても親子であっても同じだといえます。広く考えれば対人関係の一切に当てはまると思います。互いに尊重し、認めあえば潤いのある素敵な社会になることは誰でも分かることなのですがそうはなっておりません。なっておりませんので、法華経の教え、南無妙法蓮華経の信仰を勧める折伏をするのです。

 能所不二•師弟不二の尊い教えを、悪しき平等主義とした池田創価字会の謗法の姿を反面教師として、私たちは正しい信仰に励むことができております。私たちを成仏に導く善知識と捉え、根気よく再折伏を継続しましょう。

  『種々御振舞御書』で、

釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第ーの善知識なれ。(乃至)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信(かげのぶ)、法師には良観(りょうかん)・道隆(どうりゅう)・道阿弥陀仏(どうあみだぶつ)、平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば、争でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(釈尊には提婆達多が一番の善知識(中略)良観や平左衛門などの讓言で、首を切られるようなことがあったから、日蓮は法華経の行者となることができた・趣意)(御書1,063㌻)と仰せのごとくです。

【余話・法華八講】

 今年の大河ドラマの主役は『源氏物語』の作者、紫式部だとか。その源氏物語に追善供養のために執り行われた「法華八講」の様子が書かれております。法会では、光明皇后作ともいわれる「法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕へてぞ得し」という法華経を讃歎する古歌を唱えながら堂内を回る「薪の行道」というものをしたようです。この古歌は、前述のように提婆達多品に説かれている、阿私仙人に仕えて仏になった釈尊の過去世の修行を歌ったものです。当時の天皇家や公家たちが法華経を厚く信仰していたことがうかがえます。

 大河ドラマではどのような扱いになるか知るよしもありませんが、興味のある方は心の片隅において鑑賞されるのも一つの方法かと思います。

 今月の7日には「興師会」、16日には「御誕生会」がございます。一年でー番寒い月ではございますが、意義深い月と捉え、体調に留意しながら、正法広布に励んでまいりましょう。

(朔日講〔聖寿803年2月1日)にて)