『諸法実相抄』文永10年5月17日52歳 (御書667㌻)
現在の大難を思ひつヾくるにもなみだ(涙)、未来の成仏を思ひて喜ぶにもなみだ(涙)せきあへず、鳥と虫とはな(鳴)けどもなみだ(涙)をちず、日蓮はな(泣)かねどもなみだ(涙)ひまなし。此のなみだ世間の事には非ず、但偏に法華経の故なり。若ししからば甘露の涙とも云ひつべし。
=尊いなみだ=
現世に受ける死罪や流罪の大難を思うと涙が流れる。また未来に仏に成ることが叶うと思えば涙が止まることはない。鳥や虫は鳴くことはあっても涙を流すことはない。日蓮は泣くことはないが涙を流さないことはない。日蓮が流す涙は世間的なことで流すものではなく、広宣流布のために流す涙である。したがって、悲しみの涙ではなく悦びの涙である、と云うのである。
【諸法実相抄】
日蓮大聖人様が佐渡で2回目の冬を過ごされた後の春5月17日に当抄は執筆されました。直前の4月25日には『観心本尊抄』が顕されております(『諸法実相抄』につきましては昨年の4月号に掲載されたものがございますのでご覧下さい)。
大聖人様はこの頃には「塚原三昧堂」から「一谷入道の屋敷」に移られておりました。御年52歳です。
「塚原三昧堂」は塚原という場所にある墓地、ということです。
『妙法比丘尼御返事』には、
「佐渡国にありし時は、里より遥かにへだたれる野と山との中間につかはら(塚原)と申す御三昧所あり。彼処に一間四面の堂あり。そら(天)はいたま(板間)あわず、四壁はやぶ(壊)れたり。雨はそと(外)の如し、雪は内に積もる。仏はおは(御座)せず、筵・畳は一枚もなし」 (御書1,264㌻)
と記されております。
人里離れた墓地にある、1メートル80センチ四方のお堂に大聖人様は身を置かれております。莚も畳もない二畳が大聖人様のお住まいです。「そら」は空のことですから、この場合は天井や屋根のことを指します。そこにある「板が合わず」ですから天井も屋根もありません。雨漏りどころではありませんでした。周りの壁もあってないようなものでしたので、雨の日には、お堂の中も外も変わらないことを「雨は外の如し」と仰せになります。晴れの日も曇りの日も「そとの如し」です。なまじ柱や破れていても壁があることでかえって吹き溜まりになります。そこで吹きさらしの野原よりもお堂の中に雪が多く積もることから「雪は内に積もる」と記されております。
このような厳しい環境の中で日々を過ごされていても、悲観することなく前向きな御本仏の御心が、「雨はそとの如し」や「雪は内に積もる」とのお言葉から拝せられるように感じます。仏様の深く尊い御境界であり、どのような状況にあっても悲観的にはならずに、常に肯定的に物事を捉え、うなだれるのではなく顔を上げて胸を張って前に進もうではないか、とのメッセージがこめられているとありがたく拝するのは私だけでしょうか。
塚原の次にお住まいとされたのが石田郷にあった一谷入道の屋敷でした。
『一谷入道女房御書』には、
「文永九年の夏の比、佐渡国石田郷一谷と云ひし処に有りしに、預かりたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに、宿の入道といゐ、め(妻)といゐ、つかうもの(者)と云ひ、始めはおぢ(怖)をそ(恐)れしかども先世の事にやありけん、内々不便と思ふ心付きぬ。預かりよりあづかる食は少なし。付ける弟子は多くありしに、僅かの飯の二口三口ありしを、或はおしき(折敷)に分け、或は手に入れて食せしに、宅主内々心あ(有)て、外にはをそるゝ様なれども内には不便げにありし事何の世にかわす(忘)れん」 (御書829㌻)
と記されております。
【現代語訳】
文永9年(1272年)夏のころに、佐渡国の(塚原の三昧堂から)石田郷一谷に移されました。日蓮の身柄を預かる名主たちは、公的にも私的にも日蓮のことを父母の敵、過去世からの敵以上に憎んでおりました。一谷入道も夫人も使用人も始めのころは怖じ恐れていましたが、前世に善き縁があったのでしょうか、日蓮のことを心の中では不憫と思われるようになりました。日蓮を預かる役目の者から支給される食物は少なく、付き従う弟子は多くおりましたので、僅かばかりの飯では二口か三口しかありませんでした。それをあるいは折敷に分けたり或は手の平に載せて食べる様子を見た宿の主人(入道)は、内心に感じることがあったのでしょう。外には恐れるような態度でしたが心の中では不憫と思い世話をして下さったことをいつの世になっても忘れることはありません。
『千日尼御前御返事』では次のように述べられております。
「入道の堂のらう(廊)にていのち(命)をたびたびたす(助)けられたりし事こ
そ、いかにすべしともおぼへ候はね」 (御書1,254㌻)
ここにあります「入道の堂」は一谷入道の屋敷にあった念仏堂を指すのではなく別の建物であると思われます。「らう」は御書には「廊」とルビを振っております。廊は、建物と建物を結ぶ細長い建物。回廊。廊下のこと等の意味です。そういたしますと、「入道の堂の廊にて命を度々助けられたりし事」と述べられるのは、入道の堂の廊、つまり廊下、あるいは建物と建物を結んでいる長い建物で、度々命を助けられた、ということになります。これでは意味が今ひとつ明瞭ではないように思えます。
そこで、「らう」に「牢」をあてはめて考えてみたいと思います。少し飛躍しすぎの感もありますが、この時の大聖人様は流罪中の囚われの御身であられた、ということを考慮しますとあながち的外れではないと思います。つまり入道の屋敷の中の一つに「牢」を設けていたか、あるいは、大聖人様が流罪中のお立場を表す上から敢えて「牢」と記されたと拝察します。そういたしますと、「入道の堂の牢」となりますので、入道の屋敷の中で「牢屋」としている建物、と解釈できます。
前述しましたように、内々心を寄せていた一谷入道一家が、大聖人様が居住されている建物に食物などをお持ちして召し上がっていただいたことから、「入道の堂の牢にてたびたびいのちを助けられし事」と仰せになられたのではないかと拝察します。流罪の御身とは言え、「念仏堂の廊」で大聖人様がお過ごしになるとは到底思えません。
先月も拝しました『千日尼御前御返事』には、
「地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよ(通)う人をあるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわす(忘)らむ」 (1,253㌻)
とあります。
【現代語訳】
地頭や地頭に従う者たち、また念仏の僧侶やその信徒等が、日蓮の庵室(あんしつ・僧侶や世捨て人が住む建物の呼び名)の側に立って一日中見張り、通ってくる人があれば惑わそうとしておりました。そのような中を、阿佛房に櫃を背負わせて見張りの目をかいくぐって訪ねてくださったことを来世まで忘れることはありません。
佐渡の島には、阿仏房・千日尼夫妻、一谷入道夫妻、国府入道、中興入道などなど、大聖人様を懸命に外護申し上げる佐渡の法華講衆の信心は、私たちを励ましてくれます。
さて「なみだ」です。
拝読の直前には
「此くの如く思ひつヾけて候へば流人なれども喜悦はかりなし。うれ(嬉)しきにもなみだ(涙)、つら(辛)きにもなみだ(涙)なり。涙は善悪に通ずるものなり」
とございます。「此くの如く思ひつヾけて」とあります。大聖人様は何を思い続けれおられるのでしょうか。それは、末法の御本仏としてのお立場を、竜の口と佐渡流罪で明確に示すことができたことです。経文に「末法において法華経を弘める者は法難に遭う」と説かれていることを実証したことになるからです。ですから流人の身であっても喜悦はかりなし、なのです。大聖人様は、心の底から、かぎりのない喜びに満たされている、と仰せです。さらに「うれしきにもなみだ、つらきにもなみだ」と続けられます。大聖人様が流される涙は善悪に通じる、つまり、涙を流される基準は、広宣流布にあることがわかります。一切衆生のために流すのが仏様の涙だということです。
私たちも、辛いとき、悲しいときに涙を流します。嬉しいときにも泣きます。大聖人様と同じように、嬉しきにも涙、辛きにも涙です。ただし、同じ涙ですが違う点が一つあります。それは「此のなみだ世間の事には非ず」と仰せのように、世間的な、世俗的な辛い、悲しい、嬉しいを超える涙が仏様の涙である、という点です。つまり、地震や異常気象などの自然災害や、戦争などの人災で貴い生命が失われないように、と願い行動を起こす時に流す涙が仏様の涙です。
私たちにも仏様と同じように、尊い涙を流すことができます。折伏の時に流す涙は大聖人様と同じ涙です。大聖人様と同じ涙を流すことができるのが折伏です。南無妙法蓮華経のために流す涙ですから甘露の味わいがある涙です。コロナ禍で甘露の涙を味わうことが少なくなっているかもしれません。しかし、甘露の涙は成仏の味がする涙です。友人知人、縁のある方々に、日蓮正宗の教えを一言一句でも語り、ともに甘露の涙を流してまいろうではありませんか。まもなく梅雨に入ります。ジメジメした季節だからこそ、心に妙法の清風を呼び込み乗り越えてまいりましょう。ご精進をお祈り申し上げます。
(朔日講〔聖寿801年6月1日〕にて)