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「日興遺誡置文」

日興遺誡置文』 元弘3年1月13日  御書1,884㌻ 

一、富士の立義聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事。

一、五人の立義一々に先師の御弘通に違する事。

 『日興遺誡置文』は、元弘3年(1333年)1月13日に、日興上人が後の世の私たちのために、御遷化の直前に書き遺して下さった御誡めの御文です。

 本日拝しました箇所は、冒頭の御文で、富士大石寺の信仰は日蓮大聖人が打ち立てられた信仰であること、身延派の五老僧達の信仰は、日蓮大聖人様の教えではないことを明確なお言葉で御教示下さっております。

《富士の立義》

 立義は竪義とも書き、義を立てて主張をすることです。身延山の地頭・波木井実長は、日蓮大聖人様が御入滅になられた後、領内に念仏の供養塔を建たり、三島神社に馬を奉納するなどして、大聖人様の教えて下さった信仰に反するようになりました。この時日興上人は、真心をこめて、大聖人様の教えに立ちかえるように諫めました。しかし波木井実長は「日興上人と私は同じ大聖人様の弟子です。弟子になった時が先か後かの違いでしかありません。したがって、日興上人から信仰のことでとやかく言われる筋合いはありません」と言い、大聖人様の信仰に立ちかえることはありませんでした。そこで日興上人は「将来地頭が謗法となるようなことがあるかも知れない。その時には身延の地を離れなさい」という御遺言や「広宣流布の時には、大勢の人々が参詣されるようになるので、その時のために開けた地に寺院を建立しなさい」という御遺言がありましたので、身延を離山されました。日興上人が離山されたことを知った南条時光が、富士・上野に日興上人をお迎えし、大石寺を建立寄進されました。この経緯から、「富士の立義」は大聖人様が立てられた義であること、反対に「五人の立義」は大聖人様の義ではないことを後世に知らしめる上からのお言葉です。

《五人の立義》

 五人は、日昭日朗日向日頂日持のことを指します。大聖人様は御入滅に先立ち、教えを弘める中心となる六人の弟子を決められました。六老僧(ろくろうそう)といいます。この六老僧は、日興上人とこの五人の六人です。六人の中で、大聖人様は日興上人を特にお選びになり、教えのすべてを付属されました。これを「唯授一人の付属」と言います。日興上人と他の五人の弟子は、六老僧としての立場は同じですが、「唯授一人」の御付嘱を受けたのは日興上人唯お一人です。この点において、日興上人と他の五人の間には仏法の上からとても大きな違いがあります。

 五人の立義が大聖人様の教えに反することの一例として、幕府や天皇家を折伏する国家諫曉の書に、「天台沙門日朗」と書いていることがあげられます。日興上人は、「日蓮の弟子日興」と大聖人の弟子であることを堂々と主張されております。「富士の立義」と「五人の立義」の違いです。

【日興上人】

 日興上人は寛元4年(1246年)3月8日、甲斐国巨摩郡大井庄鰍沢にお生まれになりました。幼いころにお父様がなくなられたことにより、お母様は武蔵国の網島家に再嫁されました。そのため、日興上人は富士郡上方庄河合(現在の富士宮市芝川)に住んでいたお母様の祖父、由比入道のもとで幼少期を過ごされました。生来聡明でいらっしゃったことから、7歳の時に蒲原荘(現在の静岡市蒲原)にあった天台宗の寺院、四十九院に上がり修学に励まれました。この時に漢籍や和歌、書を学ばれ、その造詣の深さから、後に「日興(上人)は外典読みである」との批判を受けることがありましたが、それは学問の秀でた成果を物語るものであるといえます。

【大聖人のお弟子に】

 正嘉2年(1258年)、日蓮大聖人様が岩本実相寺の経蔵で一切経を閲覧された際に、日興上人はその御尊容に接し、お弟子となり「伯耆房(ほうきぼう)日興」の名を賜りました。それ以来、大聖人様に常に付き従い、給仕を怠ることなく励まれました。伊豆や佐渡の御流罪にもお供をされ、竜の口で大聖人様が末法の御本仏として「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」された際も、おそばでお仕えしていたことと拝します。

【常随給仕】

 佐渡では、大聖人様に給仕されるだけでなく、阿仏房らとともに積極的な折伏を推し進められ、大きな成果を挙げられました。佐渡一国に建立された多くの寺院が後の富士大石寺の末寺だったことからも明らかです。

 佐渡は末法の一切衆生を導く御本仏として日蓮大聖人様が最初に活動をされた地であり、その間近で仕えた日興上人は大聖人様の深い御境界をご承知されていたと拝されます。この時期に著された『開目抄』は、大聖人様が末法の御本仏であることを明かされた書です。また、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』では、末法の一切衆生を成仏に導く御本尊様のお姿が明らかにされています。この重要な御書が執筆されるときに間近でお仕えしていた日興上人の御境界を尊く拝するのみです。日興上人が墨をすり、筆を整え、紙の用意をされていたかもしれません。

【大聖人様が御本仏】

 大聖人様が御入滅された後、日興上人が御書写された御本尊様には、大聖人様を御本仏と拝された証拠があります。それは「南無妙法蓮華経」のお題目とともに「日蓮」と御認めになっていることです。これは、南無妙法蓮華経が即座に日蓮大聖人様であり、日蓮大聖人様が即座に南無妙法蓮華経であることを意味しています。

 一方、日昭や日朗など他の弟子たちは、お題目の下に自らの名前を書いた曼荼羅を本尊としており、大聖人様を御本仏と拝したか、菩薩としか拝することができなかったかの違いが明確に現れています。

【法華聖人】

 『白米一駄御返事』には「法華聖人の見参」とあり、他の御書にも「仏聖人の御見参」や「法華聖人の御宝前に申し上げ」などの言葉があります。これにより、日興上人が大聖人様を仏様と拝していたことが明らかです。

 佐渡の法華講衆も、大聖人様の深い御境界を感じていたと思われます。日興上人が身延を離山された後、佐渡の法華講衆は身延山には参詣せず、富士大石寺に参詣しました。日興上人が正しい教えを守り伝える唯授一人のお方であることを理解していたからです。

【正しいことを進めるには抵抗がある】

 『兄弟抄』には、

此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず

(986㌻)

と記されています。「熱原の法難」を通じて、折伏が末法の修行であり、南無妙法蓮華経が正法であるとの現証を示されたのも日興上人です。

 私たち日蓮正宗富士大石寺の信仰を持つ者は、「日興上人が拝した御本仏日蓮大聖人様」が信仰の根本であることを忘れることなく、正法広布に進んでまいりましょう。

(興師会[聖寿804年2月7日]にて)