聖寿804年2月16日 日蓮正宗 佛乘寺
『寂日房御書』
かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むベきなり。法華経の行者といはれぬる事不祥なり。まぬかれがたき身なり
(御書・1,394頁4行目)
〔現代語訳〕
「日蓮の弟子檀那となった人々は、日蓮と過去世からの縁が深いと思い、日蓮と同じように法華経を弘めるべきです。法華経の行者と言われることは不祥(不請)です。このことから逃れることはできない身です」
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〇「不祥」について
「不祥」の意味を辞書にあたりますと、
〔不祥=縁起の悪いこと。不吉なこと。災難。不運(以上広辞苑)。めでたくないこと。縁起が悪いこと。また、そのさま。不吉(以上大辞林)〕
これらの辞書の意味からすると、「不祥なり」とは、「法華経の行者となることは不運で不吉で縁起が悪いこと」になります。そうしますと、「大聖人様との過去世からの深い縁で、今世には法華経の行者と言われる身になったのだから、不運だと諦めて折伏をしよう」と言うことになります。これではあまり嬉しくありませんね。意味が通じないように思われます。そこで、「不祥」と同じ発音の「不請」ではないかと思い、辞書を調べました。そういたしますと、
〔不請=仏〕請い求めなくても慈悲の手をさしのべること。菩薩の慈悲救済をいう語(大辞林)。請い望まれなくても救いの手をさしのべること。菩薩の慈悲救済の性格を語ることば。「不請の友」の形で、慈悲の人、仏菩薩の意に用いる(国語大辞典)〕
とありました。
また、「不請の友」については、『勝鬘経』という経典に、
「普ねく衆生のために不請の友となりて、大悲もて衆生を安慰(あんい)し、哀愍(あいびん)し、世の法母となる」
とあります。意味は、
「すべての人々のために、仏や菩薩の心で友となり、大きな慈悲で心を安らかにし、慰め慈しみ、世間の人々の法の母となる」
ということです。
このことから、「不請」は、仏や菩薩が人々に向かって正しい教えを信ずるようにと進んで働きかけることを意味する言葉であることがわかります。
そういたしますと、「不請」という言葉は、私たちが日頃から、病気や悩み事を抱えている友人知人に向い、相手から望まれなくても、こちらから進んで救いの手をさしのべ、御本尊様のことを教える折伏と同じ意味であることがわかります。
『寂日坊御書』は、残念ながら御眞蹟が伝えられておりません。どなたかが御眞蹟を書き写され、それが後世に伝えられたものです。書き写す際に「不請」を「不祥」に誤写したものだと考えることで、御文の御意を正しく拝することができると思います。
以上の理由から、私は「不祥」よりも「不請」のほうが相応しいと考えました。例え誤写があったとしても、当抄から、私たちの信心は、折伏の信心であることが判ります。804年の御誕生日に、皆さまがご参詣になり、真心からの御報恩と、折伏の決意を新たにされたことを大聖人様がお喜び下さっていると信じます。ご参詣ご苦労様でした。
(御誕生会[ 聖寿804年2月16日]にて)