「上野殿御返事」弘安2年11月6日 58歳 御書1,428㌻
願はくは我が弟子等、大願ををこせ。
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〔大きい希望を〕
日蓮の願いは、私の弟子や檀信徒が大きな願を立て、前進することです。
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4月28日は773回目の立宗宣言の日です。『御義口伝』には、
「大願とは法華弘通なり」(御書1,749㌻)
とあります。一切衆生が幸せになれる南無妙法蓮華経を弘めることが大願である、と大聖人様は決意され、私たちにも大願を持つように勧めて下さっております。
立宗宣言の月にあたり、「大願」にこめられた意義を改めて心に刻み、折伏に励んでまいりましょう。
この御書は弘安2年11月6日に、21歳の南条時光に与えられたものです。冒頭に「唐土に竜門と申す滝あり」とあり、中国の竜門の滝を引用されていることから『竜門御書』の別名があります。御眞蹟と日興上人が書き写されたものが総本山で厳護されています。
御書のおおよその内容を次に記します。
【竜門】
「中国の『竜門』という滝には、たくさんの鮒(ふな)が集まり、登れば竜になれると言われています。しかし、登れる魚はほんのわずかで、流される魚や、鳥や人に捕らえられる魚がほとんどです」
【成仏の難しいこと】
「仏になる道も、魚が竜になるのと同じくらい難しいものです。釈尊の弟子である舎利弗(しゃりほつ)でさえ、六十劫もの長い修行を積んだ後に仏ではなく声聞・縁覚の二乗となりました。法華経にも、昔から仏との縁を結んだ者たちが、三千塵点劫や五百塵点劫という気の遠くなるほどの長い時間、修行しながらも魔の用きから退転し、六道輪廻を繰り返したことが説かれています」
【大聖人様の願いと信仰を貫く決意を促される】
「こうした苦難の話は他人事のようですが、今や自分たちにもふりかかっています。
日蓮は、弟子や信徒たちに『強い信仰心を持って前に進んでほしい』と願っています。疫病では助かった命も、蒙古(元)の侵攻が来れば助からないかもしれません。しかし、死ぬのは誰にも避けられないのです。
同じ死であるならば、法華経のために命を捧げるべきです。命を妙法に捧げることは、露(命)が大海(妙法)に入るようなもの、塵(命)が大地(妙法)に帰るようなものです」
最後に、法華経「化城喩品」の、「願わくは、この功徳をもって、広くすべての人々に及ぼし、我らも衆生も皆ともに仏道を成ずることができますように」を引かれています。
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【上野賢人の宛名書き】
南条時光に対して「上野賢人」という宛名書の御書を与えられました。これはこの2ヶ月前に起こった「熱原法難」が関係しています。この時、地頭という職にありながら、鎌倉幕府に対して一歩も引くことなく、熱原の法華講衆と異体同心し、不自惜身命の信心を貫いたことを
【当抄のまとめ】
この御書で大聖人様は、魚が竜門を登って竜になる話を引用され、仏道修行の厳しさと、どんな困難があっても法華経の信仰を貫くべきであること、また「命をかけて信仰を貫け」と励まし、共に仏の道を目指そうと呼びかけられています。
《大御本尊建立と大願》
当抄の宛名書きは「上野賢人殿」です。賢人(けんじん)は、知恵や行いがすぐれた賢明な人を指し、聖人に次ぐ徳のある人とされています。賢人について、四条金吾に与えられた御書には、「賢人は八風と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり。をゝ心(むね)は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまぼ(守)らせ給ふなり」
(『四条金吾殿御返事』御書1,117㌻)
とあります。
御文からも明らかなように、八風(はっぷう)に冒されない人は仏様に最も近い方です。しかし、四条金吾には「八風に冒されないように」と注意をされ、南条時光には「賢人」と仰せになります。
この違いに、日興上人が身延を離山された後のそれぞれの信心が現れているように思えてなりません。皆さまはどのように思われるでしょうか。
どちらにせよ、ここに熱原法難が大きな意味を含んだものであることが示されています。数ある御書の中でも、南条時光に与えられた当抄は、時光の信心、熱原の法華講衆の信心、日興上人との僧俗和合の信心の上からも、特別のものであるといえます。
《熱原法難》
弘安2年(1279年)9月、現在の静岡県富士市にあった「滝泉寺」に住む大聖人様の弟子となった下野房日秀師の田圃(たんぼ)の稲刈(いねかり)を熱原の法華講衆が手伝っていました。その時を狙って、滝泉寺の院主代である行智が、法華講衆が他人の田んぼで稲刈りをしている、と訴えました。そのことで無実の農民たち人が鎌倉に連行されるという事件が起こったのです。幕府の役人たちは、法華講衆に対して、大聖人の信仰から退転するように、南無妙法蓮華経と唱えないように、と言うばかりか、卑劣なことに拷問まで加えました。しかし、法華講衆は声を惜しまずお題目を唱え続けましたので、ついに中心者の神四郎弥五郎弥六郎の人の命を奪いました。
この時21歳の南条時光は、日興上人の御指導のもとで、熱原の法華講衆を匿うなどして、地頭でありながらもお百姓たちと心を一つにして法を守り通しました。思いますに、幕府からの陰湿な弾圧があったことと想像されます。それでも怯むことなく日蓮大聖人様の信仰を貫いたことは「ありがたい」ことです。ありがたいとは、行いが希なこと、勝れた行為、立派なこと、尊いことなどの意です。
熱原の法華講衆も、北条家の「御内人」であり「御家人」であり「地頭」である南条時光が「異体同心」の実践者であることにどれほど励まされたでしょう。勇気付けられたことでしょう。ここでも「ありがたいこと」が現れています。
この熱原の法難において、不自惜身命の信仰を貫いた法華講衆の姿を目の当たりにされた大聖人様は、10月12日に、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊様を建立されたのです。そのことを『聖人御難事』で、
「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計ばかりなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。法華経に云はく『而も此の経は如来の現在にすら猶なお怨嫉多し。況んや滅度の後をや』云云」
(弘安2年<1279年>10月1日 御書1,396㌻)
と仰せです。
この御書の御文の意を拝しますと、
「清澄寺の南面で初めて南無妙法蓮華経と唱えて宗旨を建立してから、弘安2年<1279年>までは27年です。釈尊は教えを説き始められてから四十余年に、中国の天台大師は三十余年に、日本の伝教大師は二十余年で、この世にお出ましになった本来の目的を達成されました。それぞれの方々が、その間に大難を受けられたことは、以前から申し上げている通りです。この日蓮は27年で本懐を遂げました。日蓮がこの27年間に受けた大難は皆さまがよくご承知のことです。法華経には『此の経文を弘めるにあたっては、釈尊でさえ多くの怨嫉がある。まして滅後の末法で弘めるとなるとなおさらである』と説かれています」となります。
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《お言葉にこめられた意義を拝する》
〇清澄寺=千葉県鴨川市にある寺院で、日蓮大聖人様は12歳の時にここで出家得度された。この後、鎌倉や京都、また奈良や比叡山等で仏教を学ばれ、末法の御本仏との御自覚に立たれた大聖人様は、建長5年(1253年)4月28日、32歳の御時に本門の題目を唱へ出されて宗旨を建立遊ばされた。
〇今に二十七年=宗旨建立の建長5年(聖寿32・1253年)から弘安2年(聖寿58・1279年)までの年数のこと。この場合の数え方は、58歳マイナス32歳で、26年になるが、満27年ではなく足かけ27年のため、32歳の時を最初の1年と数えるので27年となる。
〇仏は四十余年=釈尊は19歳の時に、苦悩にあえぐ人々の救済を決意して出家し、難行苦行の末、30歳の時に仏と成った。それ以来42年間、華厳経や阿弥陀経や大日経などを説き、72歳の時から法華経を説き始め80歳で入滅した。ここで仰せの「仏は四十余年」は、本懐である法華経を説くまでの時間を指している。つまり、釈尊は四十余年後に目的を達成した、ということ。
〇天台大師は三十余年=天台大師は、中国の光州にある大蘇山で慧思の門下となる。法華経薬王品の焼身供養を読誦して突如として覚りを開いた。これを大蘇開悟(だいそかいご)という。薬王品において覚りを開いたことから、天台大師は「薬王菩薩の再誕」とされる。
『御義口伝』に「凡そ天台大師も本地は薬王菩薩なり(乃至)薬王菩薩は止観の一念三千の法門を弘め玉ふ」(御書1,812〜1,813㌻)とある。
総本山第9世日有上人の申状には、「像法千年の中末震旦には、薬王菩薩の應作(再誕)天台大師南北の邪義を破して法華迹門を弘宣す(像法時代の中ごろに中国では、薬王菩薩の再誕である天台大師が、それまで弘まっていた南三北七といわれる教えを打ち破って、法華経の迹門を弘めた)」とある。ちなみに、天台の師匠である慧思南岳について、
『釈迦御所領御書』では、
「尸那(しな)国(中国)の南岳大師(なんがくだいし)此の国の上宮太子(じょうぐうたいし)と生まれて、この国の主となり給ひき」 (御書804㌻)
と述べられている。
※上宮太子=聖徳太子のこと。
〇伝教大師は二十余年=比叡山延暦寺を開き、法華経迹門を弘めた。伝教大師の願い本懐は、奈良時代に鑑真が立てた小乗の戒壇から一歩進めた、迹門の戒壇を建立することだった。その願いが二十数年後に達成されたことを指す。
『義浄房御書』に、
「伝教大師は天台の後身(ごしん)」(御書668〜669㌻)
とある。
〇出世の本懐=釈尊は法華経を説くことが本懐。天台は摩訶止觀で一念三千を説くことが本懐。伝教は迹門の戒壇建立が本懐。この拝しかたは、御文の流れのうえから自然なものである。繰り返すが、その本懐が達成されるまでの期間が、釈尊は四〇余年、天台は三十余年、伝教は二十余年であった、と仰せであることも、文の流れから自然である。このことから、大御本尊建立の経緯を述べられた御書であることを銘記しなくてはならない。
〇余は二十七年=日蓮大聖人様の本懐が成就されたのは本門の題目を唱え始められたときから数えて27年後の弘安2年である、ということ。弘安2年9月に熱原法難、10月12日に本門戒壇の大御本尊様の建立、11月16日に当抄を御認めになり、南条時光に与えられた前後で、大聖人様がどのような御振舞をされたかを拝すれば、大聖人様の御本懐が何であったかが明らかである。
大聖人様が、神四郎ら三烈士をはじめとする熱原法華講衆の不自惜身命の信仰を御覧になられ、それを機縁として、弘安2年(1279年)10月12日、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊様を建立されたことが本懐でなくて何であろう。
熱原の信徒を命がけで匿い、日興上人をはじめとする僧侶たちを外護した時光の功績は言葉に表すことができないものである。
ゆえに、当抄の追伸に、
「此はあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり」(御書1,428㌻)と認められたのである。前述したように
「熱原の事のありがたさ」は、凡夫が仏になる道であり、命がけで正法を受持することで、鮒が竜になれるように、舎利弗がなし遂げることができなかった成仏が叶う、久遠の昔に下種を受けながら、悪縁にあって途中で退転した人々とは違い、成仏の功徳を受けることができた。このことを「ありがたいこと」と仰せになるのである。
〇法華経=法華経法師品第十の文。怨嫉は怨(うら)んだり嫉(ねた)むこと。釈尊でさえ怨嫉されたのであるから、末法でさらに激しい怨嫉があることを説き、それだけ正法を弘めることの難しさを教える経文。正しい教えを受持して実践する者に対して、非難中傷するだけではなく、ときには暴力を加えることもある。大聖人様が受けられた「既に二十余年が間此の法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり」(『開目抄』 御書539㌻)のお言葉は、大聖人様が末法の御本仏のお姿を明らかにされたものであると拝する。
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《まとめ》
ながながと書きました。最後まで目を通して下さりありがとうございます。ここで申し上げたいことは次のことです。
『上野殿御返事』の4つのポイント
1.大願を立て、信仰を貫ける人間に成長せよ
「大願とは法華弘通なり」と大聖人が示される通り、一切衆生救済のための大願を持ち、法華経を弘める決意を促されています。
2.仏道修行は困難だが、命を惜しまず妙法のために尽くす決意こそ、成仏への道である
と教えて下さいます。
3.熱原法難を通して示された「異体同心」「不自惜身命」の信心
南条時光が地頭として法華講衆と共に信仰を貫いた姿が「ありがたい事である」とえられ「上野賢人」と特別な名で呼ばれ、私たちにも後に続くように促されています。
4.大聖人様の「出世の本懐」成就の背景に熱原法難がある
熱原法難を経て、大聖人様は弘安2年10月12日に本門戒壇の大御本尊様を建立されたことを、釈尊、天台、伝教の先例を引かれ、大聖人様も27年の法戦を経て出世の本懐を遂げたことが明かされています。
以上
(朔日講〔聖寿804年4月1日〕にて)