文永10年5月17日52歳 御書667㌻
鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮はなかねどもなみだひまなし。
<仏様の涙>
鳥や虫はよく鳴きますが涙は流しません。日蓮は鳥や虫のように泣くことはありませんが、一切衆生のことを思うと涙が止まりません。
〇鳥や虫との違い
鳥や虫は鳴けども、涙を流しません。その声は、生きるためのものに過ぎません。縄張りを示し、仲間を呼び、時に敵を威嚇するために鳴いています。鳥たちの鳴き声は、命の証であり、やがて消えていく命の旋律なのです。
しかし、鳥や虫の目から涙がこぼれることはありません。たとえ目を潤ませていたとしても、それは感情の表現としての涙ではなく、ましてや他者のために流す涙ではありません。
一方、日蓮大聖人様は声高らかに鳴くこともなく、身を震わせて泣くこともありません。けれども、その御眼から溢れる涙は、決して途絶えることはありませんでした。
〇御書を賜った最蓮房日浄
今月の御文の『諸法実相抄』は文永10年(1272年)5月17日に佐渡で認められたものです。このとき大聖人様は52歳です。御書を賜ったのは最蓮房日浄(さいれんぼうにちじょう)です。当抄の外にも、『生死一大事血脈抄』『草木成仏口決』『当体義抄』『立正観抄』などがあります。いずれも御法門で極めて重要なことが記されています。もともと最蓮房は天台宗の僧侶でしたが、この時は佐渡に流罪中でした。流罪になった理由や期間は明らかではありません。
最蓮房が大聖人様より折伏を受けてお弟子になったのは文永9年の2月です。そのことが次の御文から明らかです。
『最蓮房御返事』
「去ぬる二月の始めより御弟子となり、帰伏仕り候上は、自今以後は人数(ひとかず)ならず候とも、御弟子の一分と思(おぼ)し食(め)され候はヾ、恐悦(きょうえつ)に相存ずべく候」 (御書538㌻)
この御文から、最蓮房が大聖人様に差し上げたお手紙の中で、「去る二月の始めに日蓮大聖人様のお弟子にしていただきました。日蓮大聖人様に帰伏した以上は、お役に立てるかは分かりませんが、お弟子の一人と思っていただければこれ以上の悦びはございません」と述べていたことがわかります。
最蓮房が御本仏大聖人様の弟子となったことへの純粋な悦びと、弟子としてお仕えしよう、という揺るぎない決意がにじみでています。
その最蓮房に対して、大聖人様はこうも仰せです。
「予が如く諸宗の謗法を責め彼等をして捨邪帰正せしめ給ふて」 (御書587㌻)
と、日蓮と同じように諸宗の謗法を破折して、邪義を捨てさせ正法に帰伏させよ、との御指導です。
『諸法実相抄』では、
「一文一句なりともかたらせ給ふべし」御書(668㌻)
と、一言でも仏法を語るべし、と諭され、文永10年の『最蓮房御返事』でも、
「御病も平癒(へいゆ)して便宜(びんぎ)も吉く候はヾ身命を捨て弘通せしめ給ふべし」(御書642㌻)
と、病気が癒え、身体が回復したならば、命をかけて折伏にはげみなさいと仰っています。
これらのお言葉は、日蓮の弟子となって正しい仏道修行をすることで、過去に天台の僧侶であったときに積んだ謗法の罪障も、必ず消滅するのだと、力強く励ましてくださるものだと拝されます。
最蓮房はこれらの教えを胸に、折伏に励みました。やがて大聖人様が身延に入られた後に赦免され京都に帰ることができたのです。一説によれば、晩年には甲州・下山に本国寺を建立し、そこに住したと伝えられています。
〇今月の御文、
「鳥や虫は鳴けども涙を流さず。日蓮は泣かねども涙ひまなし」
この言葉は、日蓮大聖人のご慈悲の深さ、御本仏の尊いお姿をお示しくださるとともに、門下の私たちに、日蓮とともに折伏の一歩を踏み出そうではないか、と励ましてくださるものです。
〇この涙は何のために流されたのでしょうか。それは、一切衆生の苦しみや迷い、そして救いへの切なる願いから生まれたものです。
日蓮大聖人様は御自身のために泣くのではなく、すべての人々の幸福を願い、誰もが迷いから解き放たれることを願って、涙を流し続けられたのです。
〇涙は感情の表出であると同時に、意志の証明でもあります。
喜びに満ちた涙もあれば、悲しみで溢れる涙もあります。しかし、日蓮大聖人様の涙は、単なる感情からのものではありません。
これは、「大難四箇度、小難数知れず」との仰せからもわかりますように、幕府の迫害や流罪に耐え忍びながらも、なお一切衆生の救済を願われた揺るぎなき御本仏としての涙です。
〇鳥や虫は、鳴き声をあげても涙は流しません。
畜生界の鳥や虫たちは「己の命だけ」を生きているからです。
しかし、人界に生を受けた私たちは、他者の苦しみを自らのことのように感じることができる存在です。
その「他者の痛みを自分の痛みとして感じる」能力こそが、人界の衆生と畜生界の衆生の違いです。そのことを日蓮大聖人様はn涙」を通して教えてくださっているともいえます。
〇ここで、日蓮大聖人様は私たちに問いかけてくださいます。
「あなたは、誰のために声をあげ、涙を流すのか」と。
信仰を持つことは、ただ教義を知り説法を聞くことではありません。信仰は、自分の足で一歩を踏み出し、現実の苦しみと向き合い、そこから救いの道を探すことなのです。
〇日蓮大聖人様の信仰は一歩踏み出すことです。換言すれば、「仏法とは、頭でわかったつもりになるものではなく、自分の足で一歩踏み出すことで、初めて命に刻まれていくものだ」ということではないでしょうか。
日蓮大聖人様は幾多の法難を乗り越えられ、身をもって南無妙法蓮華経を説かれました。日蓮大聖人様の一歩一歩が仏法を弘めることそのものでした。
御本尊様を受持し、折伏をすることで、私たちも、自己のために流す涙から、他者のために涙を流すことができるようになれます。それが、信心の歩みを確かなものにした、といえる時です。
〇「勧める一声」もまた、信心の歩みそのものです。
日蓮大聖人は、流罪にあい、迫害を受けながらも、弘教の歩みを止めることなく歩き続けられました。御自らも南無妙法蓮華経を唱えられ、人にも勧められ、一人ひとりの苦悩に向き合い続けられました。
そのお姿に、末法の法華経の行者としての御振舞があり、御本仏の教えを体現されたものであると拝します。
〇私たちもまた、その道を歩む者です。
信仰は、頭で理解するだけのものではありません。自らの足で歩み、声をあげることで、はじめて命に刻まれるのです。
だから、信心を勧める一歩一歩の前進が重要な意味を持つのです。
人に勧めることをためらう心もあります。当然のことです。しかし、ためらい、声が震え、うまく言えなくてもかまいません。それは、初めて歩き始める者の自然な姿です。一歩踏み出すこと、そして声をあげること。それが、私たちの仰です。信仰は孤独な旅路に例えられるかも知れません。けれども、信仰の旅路は決して一人ではないという確証があります。なによりも「なみだひまなし」と仰せくださるように、日蓮大聖人様が見守って下さっている幸せへの旅路だからです。
私たちの歩みは、大聖人様が流してくださる涙とともに永遠に続いていきます。日蓮大聖人様の涙は、今も、静かに私たちの心に流れつづけているのです。
佛乘寺の檀信徒の皆さま。一歩を踏み出そうではありませんか。その一歩が、自らの心を動かし、やがて多くの人々をも照らしていくことになります。
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■『諸法実相抄』を拝して三世を思う
◇「今」にすべてが凝縮されている
日蓮大聖人様は、『諸法実相抄』の中で、
「凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり、又未来は決定として当詣とうけい道場なるべし。過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず乃至法華経の行者となる事は過去の宿習なり」(御書667㌻)
と仰せです。
私たちは、つい目の前のことだけに心を奪われてしまいます。しかし、大聖人様は、「今」という一瞬を通してこそ、過去と未来を知ることができるのだと教えてくださっているのです。過去現在未来の三世は、それぞれ別々のものではない。すべては「今」に凝縮されている、と。
それは、現在に執着し、目先の暮らしに追われる私たちへの、大きな戒めでもあります。
◇現世を肯定することで、三世が輝く
法華経の精神とは、「来世がある」と悟った上で、今この瞬間をどう生きるか、という問いかけに他ならない、ともいえます。
現世を否定するのではなく、肯定することで、過去も未来も、素晴らしいものに変わっていきます。これは決して抽象的な教えではありません。大聖人様の御振舞が、そのことを証明してくださっています。
◇大聖人様が身をもって示された「過去の宿習」
「法華経の行者となる事は過去の宿習なり」
この言葉に込められた意味を考えてみたいと思います。
大聖人様は極寒の佐渡に流罪となり、墓場の隣の、壁すらない粗末な小屋で、膝の上に雪が積もる中、冬を過ごされました。鎌倉に残した弟子は土牢に囚われ、信徒は職を失いました。この法難に退転した人々もおりました。それでも大聖人様は、御自身の御境涯を嘆くことは決してありませんでした。
なぜなら、それが「過去の宿習」、すなわち過去世から積み重ねてきた善悪一切の因縁によって現れた「今」である、とお示しくださる上からです。
つまり、苦しみや困難に直面しても、それを受け止め、過去を省み、未来を切り開くことこそが大切なのだと、教えてくださっているのです。
◇一日の中に「三世」がある
私たちの生活もまた、三世の流れの中にあるといえます。
「昨日今日そして明日」という時間の経過を、仏法の三世に置き換えてみると、「今日現世」は「昨日過去世」の続きであり、「明日来世」は今日の続きにほかなりません。
この当たり前の事実を、大聖人は仏法の眼をもって深く説いてくださっているのです。
朝夕の勤行もまた、その一環です。朝は目標を立て、心を開き、未来への一歩を踏み出すときです。そして夜には一日を振り返り、良かったことはさらに伸ばし反省すべき点は改める。その繰り返しが、仏道修行の実践であり、人生を整えていくリズムとなるのです。
◇「口にする前に考える」――それが三世を変える
日常生活の中で、不満や愚痴が口をついて出ることがあります。職場でも、友人関係でも、家庭でも、どこでもそうです。
しかし、そのようなときに一瞬でよいから立ち止まってみませんか。
口に出す前に、「なぜそうなったのか」を考えましょう。これが大事です。今発する言葉は「過去」の所産であり、それが習気となって「明日」に現れるのです。だからこそ、気をつけなければならないのです。
愚痴や不平不満は、自分の身に跳ね返ってきます。これは、誰もが経験していることではありませんか。
◇過去の因縁は変えられる——「法華経の行者」
とはいえ、「これは宿習だから仕方がない」と諦める必要はありません。「法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつく造らるゝは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし」
と大聖人は教えてくださるからです。
現在の我が身は「法華経の行者」である、との自覚をもち、現世を生きることは、「権仏」としての宿業ではなく、「仏」の宿縁があったことにほかならないからです。直に、正直に、題目を唱えること大聖人は、「日蓮と同意ならば」(御書666㌻)
とも仰せです。
これは、日蓮の教えを素直に信じるならば、ということです。生まれたばかりの赤ん坊が、お母さんの乳を疑わずに飲むように、南無妙法蓮華経と題目を唱えれば、三世を変えることができる、と。
否定的な状況を、肯定的に見つめ直す。仏法、就中、日蓮大聖人様の教えは、まさにそういう力を与えてくれるものです。
◇明るく前向きにーーそこから全てが始まる
常に明るく、前向きに
そう心がけることで、病も恐れをなして退散し、貧乏神も尻尾を巻いて逃げることでしょう。これは単なる比喩ではありません。実際に、私たちの心が変われば、周囲の現実もまた、少しずつ変わり始めます。少しでも変わったと実感できたときの悦びは大きいものがあります。さあ、我が佛乘寺の檀信徒の皆さま、互いに励まし合い、明るく楽しくお題目を唱え、大聖人様のお使いである、折伏の修行をしようではありませんか。
(朔日講〔聖寿804年6月2日〕にて)