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「新池殿御消息」

『新池殿御消息』 弘安2年5月2日  58歳御書1,363㌻

八木三石送り給び候。今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて、南無妙法蓮華経と只一遍唱へまいらせ候ひ畢んぬ。いとをしみの御子を、霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。

<亡き子を思う母の願い>

お送りいただきましたお米を三石、御本尊様の御宝前にお供えして、南無妙法蓮華経とお題目を唱えました。それは、亡くなられた貴方の可愛くて大切な御子様を、霊山浄土に間違いなくお送りするためです。

〔御書を賜った新池左衛門尉〕

新池殿御消息』を賜った新池左衛門尉について、総本山59世日亨上人は、「弟子檀那列伝』に、「新池左衛門尉。遠江の国磐田郡の新池(袋井在)に住して日興上人に依って入信せられたであろう、尼と共に純真の人であった」と記されております。

 現在、静岡県袋井市新池という地名があります。おそらくその地で地頭職をされていたのではないかと想像をいたします。

 新幹線で西の方に旅をする機会があれば、この新池を通ります。新富士駅に差し掛かるころに総本山の方角に目を移し、手を合わせたときに富士山が見えると、今日はよい日だと嬉しく思います。その後、静岡駅を通過し、次の駅の掛川を過ぎたころに、進行方向右側に、「ヤマハ発動機」と「ハウス食品」の案内板が見えます。そこが新池です。鎌倉時代に、新池殿が折伏に励まれていた地です。

 この新池から、当時大聖人様が住されていた身延までは約120キロあります。因みに、鎌倉から身延までの距離が約150キロです。大聖人様が身延に入られるときには、5泊6日の日程であったことが御書の中で述べられています。当時は、1日に30キロから40キロ歩いたようです。このことから、新池殿が登山をするには片道4泊5日を要したと考えられますので、往復では10日間です。山梨のお隣の静岡県と言っても、決して近い距離ではありませんでした。

 当抄の最後に、

上下万人一同のにくまれ者にて候に、此まで御渡り候ひし事おぼろげの縁にはあらず。(乃至)在俗の身として世間ひまなき人の公事(くじ)のひまに思ひ出ださせ給ひけるやらん。其の上遠江国(とおとうみのくに)より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり。(乃至)かゝる所へ尋ね入らせ給ひて候事、何なる宿習なるらん」(御書1,366㌻)とあります。

 現代語にいたしますと、おおよそ次のようになります。

(法華経を信仰しないと地獄に堕ちる、と日蓮は折伏をするので)日本国中の人々から憎まれています。そのような日蓮の所に尋ねて来てくださるのは深い縁があるからです。(中略)貴方は在家の身で、世間の仕事も忙しく、公事もある中にもかかわらず、日蓮のことを思い出してくださいました。方の住む遠江の国からこの甲州波木井の郷、身延までは300余里(約120キロ)もあります。(中略)このような所までお尋ねくださることは、過去世からの深い御縁だと思います


〔公事〕

 御文の「公事」の本来の意味は、朝廷の命による務めを意味しますが、時は鎌倉幕府の公的な仕事を指すと思われます。このことから、新池殿は地頭などの公的役職にあったと推測されます。

〔新池殿が賜った御書〕

 新池殿が賜った御書は、当抄と信徒としてのあり方を御指南された『新池御書』の2編だけが伝えられております。法華講衆としての心構えを学ぶ上では、いずれも重要な御書です。また私たちの信仰の指針を分かりやすくお示しくださる御書でもあります。

〔先立った子の追善供養に励む新池殿〕

 拝読の御文から、新池殿が子に先立たれ、その追善供養を日蓮大聖人様に願い出たことがわかります。その願いを受け、大聖人様は南無妙法蓮華経とお題目を唱えてくださり、

無妙法蓮華経と只一遍唱え、貴方の最愛のお子様が来世では仏様の住まわれる霊山浄土に間違いなく生まれ変わるように回向をしました」と仰せになられました。

 この「南無妙法蓮華経と只一遍唱え」との仰せは、申すまでもありませんが、単に数の上での一遍ではありません。一遍とか百遍とか一万遍などのあらゆる数を超越したものであり、それこそが御本仏の唱えてくださるお題目である、と拝することが肝要です。

〔只一遍に込められた御本仏の御確信〕

只一遍」のお言葉に込められたのは、子の死を悲しむ親に対して「心配ありません。大丈夫です。貴方のお子様は必ず霊山浄土に生まれ変わります」と、御本仏が万感の思いをこめて子を亡くした親を励まして下さるお言葉である、と拝するものです。一万遍や百千万遍を越えた「只一遍」であり、まことに有り難いお言葉ではありませんか。

 新池殿がこの時に御供養された1石は米俵2俵半。約150キログラムです。1人が1年間に食べる米の量に相当します。3石は3人の1年分の食料です。まことに貴重な御供養です。

[「一乗妙法蓮の御宝前」の意義〕

 その貴重な御供養を、「一乗妙法蓮華経の御宝前に備え奉り」と仰せです。この御文を私たちは銘記しなくてはなりません。それは、日蓮宗身延派などの信仰をし、南無妙法蓮華経と唱えている人たちに教えなければならない重要な意味をもつお言葉だからです。

[一乗の教えは妙法蓮華経〕

 この「一乗」とは「一仏乗」のことです。一乗も仏乗も同じ意味です。ただ一つだけ仏に成ることのできる乗り物、という意味から一乗といい一仏乗といい、仏乗というのです。その一仏乗の教えが妙法蓮華経である、ということから、「一乗妙法蓮華経」と仰せになるのです。

 釈尊は8万4千種類もの経文を説かれました。その教えの中で、妙法蓮華経のみが一乗の教えである、ということであり、換言すれば、妙法蓮華経を信じて修行に励むことにより、成仏が叶う、仏様の心を我が身に具えることができる、という意味なのです。

〔佛乘寺の名前〕

 余談ながら、そのように拝しますと、わたしたちのお寺の名前である佛乘寺は、唯一の正しい教えを修行する場所、との意義を込め、総本山第六十六世・日達上人が名付けてくださったものである、と誠に有り難く拝するものです。この「」には、衆生を悟りに導く、という意味があります。その上に、「」がつくのですから、とても素敵な名前ではありませんか。日蓮正宗には世界中にお寺があり、それぞれのお寺の名前には、それぞれの意味が込められております。その中でも、佛乘寺は特に素敵な名前である、世界一である、最高の名前である、と住職は誇りに思っています。それと同時に、佛乘寺にお参りをされるお一人お一人も、世界一の檀信徒であると誇りに思っています。したがいまして、自分だけが最高の信徒になるだけではなく、周囲の方々を折伏し、皆で最高の日蓮大聖人樣の信者になろうではありませんか。

〔南無妙法蓮華経の御本尊こそ一乗〕

 さて、先ほど「一乗妙法蓮華経御宝前」を銘記して下さい、と申し上げました。それはなぜかと申しますと、御本尊様を御安置した大切なところを「御宝前」といいます。御宝の前、仏教での御宝は御本尊様ですから「御宝前」とは御本尊様を御安置したところです。そういたしますと、この御文の「一乗妙法蓮華経」が御本尊様、ということになります。では、一乗妙法蓮華経の御本尊様とはどのようなものであるか、ということが重要になってまいります。そこで、『本尊問答抄』を拝しますと、

問うて云はく、末代悪世(あくせ)の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書1,274㌻)

と仰せです。ここで、日蓮大聖人様は、末法の凡夫はどのような御本尊様を信仰すればよいのでしょうか、という質問に対して、法華経の題目を御本尊様とすべきです、とお答えになります。『新池殿御消息』では、一乗妙法蓮華経が御本尊様である、と仰せになられ、『本尊問答抄』ではさらに具体的に「法華経の題目」が御本尊様であると御指南下さっております。

 さらに、同じく『本尊問答抄』に、

願はくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕(つかまつ)り候。其の旨をし(知)らせまい(進)らせむがために御本尊を書きをく(送)りまいらせ候に、他事をすてゝ此の御本尊の御前にして一向に後世をもいの祈らせ給ひ候へ」(御書1,283㌻)と仰せです。この御文の意は、先に示された法華経の題目を御本尊様として書き顕して貴方に御下附をいたします。この御本尊様の御前で現世と来世のことを祈りなさい、と仰せになるのです。ですから、「題目を本尊とすべし」とは、南無妙法蓮華経の御曼荼羅を御本尊としなさい、という意味になります。釈尊の仏像を本尊としなさい、とは仰せにならずに、「南無妙法蓮華経の題目を認めた御曼荼羅を本尊とすべし」と断定されているのです。

 この、「他事を捨ててこの御本尊の御前にて、一向に後世をも祈らせ給ひ候へ」との仰せの「他事」は他の教えの意味です。ですから、南無妙法蓮華経の御本尊様一筋に、との御本仏のお言葉である、と拝することが大切です。

 このように明らかな御指南があるにもかかわらず、釈尊の仏像を造って本尊として拝むのは日蓮大聖人様の仰せに背いていることになります。ですから、私たちと同じように「南無妙法蓮華経」と修行をしても、日蓮大聖人様と心が通わない修行ですから幸せになることはできないのです。むしろ、師や親の教えに背くのですからお叱りを受けることになるのです。

③「本尊とは勝れたるを用ふべし」

(御書1,275㌻)

とも『本尊問答抄』にはございます。

〔末法の御本仏日蓮大聖人〕

 日蓮大聖人様が末法に御出現遊ばされたのは、釈尊の教えでは救うことのできない私たち凡夫を導いて下さるために、「南無妙法蓮華経の御本尊様」を顕して下さったのであり、そのことを「一乗妙法華経の御宝前に備え奉り」と教えて下さるのであることを銘記して下さい。そして、ほんとうの南無妙法華経の教えに導くお使いをしましょう。

(朔日講〔聖寿804年7月1日〕にて)