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日寛上人『三宝抄』

日寛上人『三宝抄』 歴代法主全集 4-385㌻

一大事の秘法に於ては尚 自余の五人に授与せず何に況や其の巳下をや。唯日興一人に譲りたまふ故に唯授一人の相承と名づくるなり。

〔日興上人ただお一人〕

一大事の秘法は五老僧たちには授与されませんでした。ましてそれ以外の人たちにはなおさらです。唯日興上人お一人にお授けになられたのです。ゆえに、唯授一人の相承と名付けるのです。

【語句の意味】

〇三宝抄=末法の三宝についての御指南があります。例えば、「所謂僧宝とは日興上人を首と為す。是則ち秘法伝授の御弟子なる故なり」(歴代法主全書④385㌻)また、「然れば則ち吾が日興上人嫡々写瓶の御弟子なる事分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり」(同390㌻)等のお言葉です。

〇一大事の秘法=一大事とは一大事因縁のことで、諸の仏が世に出られる上での最も大事なことを言います。秘法は諸仏が世に出られるときの正体として所持されている秘密秘要の法のことです。末法の私たちの立場では、日蓮大聖人様が明らかにされた三大秘法が、一大事の秘法です。

〇自余の五人=自は日興上人のことです。余の五人は日昭・日朗・日向・日頂・日持の五老僧を指します。日蓮大聖人様は弘安5年10月に御入滅されるにあたり、中心となる6人の弟子を決められました。六老僧といいます。その6人の中で、日興上人唯お一人に日蓮大聖人様の仏法の根幹である「一大事の秘法」を授けられました。

〇其の已下=五老僧であっても授けられなかったのであるから、それ以外の弟子たちにはなおさらです、との意。

〇唯授一人=唯一人に授く、と読みます。日蓮大聖人様のお立場からは、日興唯一人に授ける、となります。日興上人のお立場からは、日興唯一人がお承(う)けした、ということです。

〇相承=師と弟子が、相対(あいたい)して法門を授け、授けられた法門を承(う)け、次代に継承することです。

〔日寛上人三百回御遠忌〕

 8月19日は日寛上人の三百回御遠忌です。日寛上人の御事はすでに皆さまにはご承知のことではありますが、今月は、日寛上人が出家得度をされる際と、御遷化の際のお姿について述べます。

 総本山第66世日達上人は、日寛上人が、第9世日有上人と共に中興の祖と仰がれる所以について、

日有上人は、信行学のうちの信と行を中心として全国を布教せられた(中略)日寛上人は、信行学のうちの、もちろん信行は当然でありますが、学を中心とせられて宗門の行学の中心をなされ、富士の教学の復興をし、大成をせられた上人として、我々は崇め奉っておるのでございます」(大日蓮357号)と御指南です。

〔日寛上人が日蓮大聖人様の教えに縁をされるようになった時の逸話〕

 日寛上人が、総本山17世御法主・日精上人の説法を聴聞するようになったきっかけとして、次のような話が伝わっています。

 ある日、市之進(日寛上人の俗名)が屋敷の門前に立っていたときのことです。そこへ、六部(ろくぶ)と呼ばれる法華経を書き写し、全国66カ国にある観音菩薩の霊場に納めて回る修行をしている者が、鐘を鳴らしながら歩いてきて、休憩のため市之進の目の前で立ち止まりました。

 この時、市之進は日頃から抱いていた疑問をたずねてみようと思い、修行者に声をかけます。

「あなたが背負っているものは何ですか」

 修行者は答えました。

「霊場に納めるための法華経で、後世の福徳を願うためです」

 市之進はさらに問います。

「では、貴方が先程歩きながら唱えていたのは観世音菩薩のお経ですか」

 修行者は答えました。

「法華経ではなく西方極楽浄土を願って、南無阿弥陀仏と唱えていました」

 この答えを聞いた市之進は、すかさず言いました。

「霊場に法華経を納めるために諸国を巡り、口では阿弥陀仏を称え、心では観世音菩薩を念じる。それでは、あなたの身と口と心のそれぞれが、互い違いのことをしているのではありませんか」

 市之進の指摘に、修行者は言葉を失い、そのまま立ち去ってしまいました。

 その様子を一部始終見ていた屋敷の門番が、市之進に声をかけます。

「あなたの問いは筋道の通ったものです。私の菩提寺である常在寺では、まさにその正しい筋道の上から仏の教えを拝することができます。そこでは、妙法蓮華経こそが仏法の根本である、と説かれています」

 市之進はこの言葉を聞いて驚き、そして大いに喜び、翌日、門番の案内で日精上人がおられた常在寺に参詣し、日蓮大聖人様の教えに縁をされ、その時に出家を決意されました。天和3年(1683年)8月、日寛上人19歳の御時です。

〔御登座〕

 日寛上人は、享保3年(1718年)3月に日宥上人より金口嫡々の血脈相承を受け、総本山第26世の法灯をお継ぎになられました。実はこの時、細草談林で先に昇進されていた日養上人がおられましたが、日養上人が年長の日寛上人にお譲りになりましたので、日寛上人は足かけ3年のお約束で26世御法主として御登座されたのです。

 日寛上人は在位3年の後、享保5年(1720年)2月に第27世日養上人に一切を付嘱され、再び学寮に入られ、御書の講義や『六巻抄』などの重要な御法門書を数多く著されました。

 しかし日養上人が享保8年(1723年)6月に御遷化されましたので、日寛上人が再び御登座されることになりました。

 享保11年(1726年)5月に第28世日詳上人に法を御付嘱になり、8月19日に御遷化されました。

〔御遷化のお姿〕

 御遷化の年の享保11年の1月から2月に掛けて、常泉寺・常在寺・妙縁寺等で『観心本尊抄』の御講義をされました。その御講義の最後の日に、日寛上人は、「法華経を梵語から漢語に翻訳した羅什三蔵は、臨終の際にこう言い残しました。『私の翻訳が正しいかどうかは、私の身を火葬したときにわかるだろう。もし火葬の際に私の舌が焼け残ったなら、それは翻訳が正しかった証である。逆に舌が燃え尽きてしまったら、私の訳した経典は捨てなさい』と。その言葉の通り、火葬のときに羅什三蔵の舌は焼け残ったと伝えられています。この故事にならい、日寛上人も言い残しておくことがあります。それは、日頃から好んでいた蕎麦を臨終のときにも食し、その後に唱題をしながら臨終を迎えるということです。そして、もし私が言った通りにならなかったなら、私の言葉を信じる必要はありません。しかし、その通りになったなら、私が述べる御法門は日蓮大聖人の御意にかなったものであると知りなさい」と仰せになったことが伝えられています。総本山第48世日量上人が『日寛上人伝』を著してくださっております。現代語訳をしました。

【現代語訳】

 日寛上人は病気になられてから御遷化まで、特別な苦しみもなく、ただ日に日にお身体が衰えていかれるだけでした。御遷化の1、2日前に、

別れの挨拶に出向く

と仰せになり、三衣を着けられ寝所から駕籠に乗られました。お供は駕籠を担ぐ4人と、お弟子の宣雅・覚隆の2人と履き物取りなどでした。始めに本堂(御堂)に向かわれ、駕籠のまま御堂の外陣まで担ぎ上げさせ、しばらく読経・唱題をされました。その後大聖人様の御廟所へ詣られ、次に隠居所であった寿妙坊の日宥上人(当時ご存命)、さらに学寮にも寄り、それぞれの場所で駕籠の中から丁寧に別れの挨拶をされました。その間、老若男女が門外に跪き、別れを惜しみました。その後、市場村へ行き、師匠の日永上人の妹である妙養日信尼にお会いし、門前町を通って住まいの方丈へ戻られました。その道中でも、男女が街道に伏して最後の別れを惜しみました。

 方丈へ戻られると、大工と桶職人に葬儀の道具を用意させました。そして、自ら棺桶の蓋に、次の漢詩とお詩を書き記されました。

【漢詩】 「桶を以て棺に代う」

「空を囲みて桶と為す 空は即ち是れ空 桶は即ち是れ仮 吾れ其の中に在り」

【お詩】

「死ぬるとは たがいひそめし くれ竹の 世々はふるとも いきとまる身を」

 なお宗務院発行の「日寛上人伝」には、このお詩の「いきとまる」とは、息とまる死と、生き留まる生を同時に詠み込まれたもので、死即生、生即死、生死常住の大覚(だいかく・仏の覚り)を示されたものと思う、とあります。

 その後にお弟子に向かって、

棺に納めるとき、この文を三度吟じてから蓋をしなさい」と命じられました。

 同じく18日の夜、御本尊様を床の上にお掛けし、香・華・灯明を供えられました。そして、

私は今夜中に死にます。決してあわてたり、うろたえるようなことがないように、あわてたりうろたえると大事なことを間違えることもあります。息を引き取った後に周りに知らせるようにしなさい。1、2人以外は側にいてはなりません。経を読み、題目を唱える以外の言葉は発してはなりません。臨終の時は舌の根が固くなるので、私と一緒に題目をゆっくり唱えなさい

と細かく指示をされました。

 この時、紙と硯を取り寄せて末期の一偶一句を自ら書かれました。

本地の水風 凡聖常に同じ 境智互に薫じ 朗然として終に臨む

末の余に咲は色香は及はねど 種はむかしに替らざりけり

 そして書き終えると、控えているお弟子に、

蕎麦を作りなさい。冥土への旅立ちにふさわしい

と告げられ、即座に蕎麦が調えられると、7口食され、笑顔で一声お笑いになり、

ああ面白きかな、寂光の都は」と仰せになりました。

 その後、ロをすすぎ、御本尊様に向かわれ一心に合掌されて、お弟子たちとともに題目を唱えられました。お身体は少しも動かず、お口を半分開けたまま、まるで眠るように穏やかに御遷化されました。

 時は享保11年(1726年)8月19日、午前8時ころです。享年62歳でした。この時、四衆(僧俗男女)の悲しみは計り知れなかったと伝えられています。

〔日寛上人の御遷化のお姿から〕

 日寛上人は御自らの御遷化のお姿を示すことで、御自身のお言葉が「真実」であることを証明されました。この日寛上人のお姿があるから、私たちは日蓮正宗の信仰を、確信を持ってすることができている、といっても過言ではありません。

 申すまでもありませんが、日寛上人が真実と証明された最も大切なことは、日蓮大聖人様が末法の御本仏であられる、ということです。大聖人様が顕してくださった御本尊様を受持すれば、即身成仏・一生成仏が叶えられる、これが根本です。この一点に迷わなければ、私たちの成仏への道は間違いなく開けます。確信を持って成仏への道を歩もうではありません

〔六巻抄〕

 次に『六巻抄』を挙げます。これには、大聖人様の教えで末法の全人類が救われることが詳細に論述されています。『六巻抄』は次の6つの書から成り立っています。

『三重秘伝抄』=一念三千の法門を権実・本迹・種脱の順に相対し、法華経の文底に秘められた真実の一念三千が末法 で広まるべき教えであることを示しています

②『文底秘沈抄』=その真実の一念三千が、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法に開かれることを明らかにしています。

③『依義判文抄』=三大秘法と諸経典の関係を示し、法華経や天台の文献にも三大秘法の依るべき根拠があることを説いています。

④『末法相応抄』=末法にふさわしい修行は妙法五字の唱題一行であり、信ずべき本尊は事の一念三千の大曼荼羅であることを明かしています。

⑤『当流行事抄』=唱題を正行とし、方便品・寿量品の読誦を助行とする当門流の修行の要点と、唱題の意義を示しています。

⑥『当家三衣抄』=大聖人直伝の法衣の形と意義を示し、当家の白五条の袈裟・薄墨の衣・円形の数珠の正統性を証明しています。

〔末法万年のための六巻抄〕

日寛上人はこの『六巻抄』を日詳上人に授けられた際、

此の六巻の書の師子王(ししおう)ある時は、国中の諸宗諸門の狐兎(こと)一党して当山に襲来すといえども、敢(あ)えて驚怖(くふ)するに足らず。尤(もっと)も秘蔵すべし、尤も秘蔵すべし

日寛上人伝16㌻)

と仰せになられました。

 御意を、「この6巻の書は、師子王のごときものですから、国中の邪宗を信仰する狐や兎のようなものが大石寺に襲いかかってこようとも、恐れることはありません。その時のために、秘蔵しておきなさい」と拝します。

 「尤も秘蔵すべし、尤も秘蔵すべし」のお言葉から、当時は秘伝の御法門であったことが拝されます。自由の折伏ができない時代から、自由な布教ができる世の中が来ることを見越されて、その時のために著されたことに、ただただありがたく思うものです。

〔仏法の真実を教えてくださる日寛上人〕

 日寛上人は、末法万年の時代を生きる私たちに向けて、自らの御遷化のお姿をもって、大聖人様の教えが真実であることを示してくださいました。今月の拝読御書にもある、大聖人様から日興上人へ、日興上人から日目上人へと、代々の御法主上人に「唯授一人の相承」が途切れることなく伝えられてきたことも、厳然たる真実であることを教えてくださいました。

 日寛上人は末法万年の時代を生きる私たちに向かい、自らの御遷化のお姿をもって、大聖人様の教えの正しさを、また、今月の拝読の『三宝抄』に示されるように、大聖人様から日興上人へ、日興上人から日目上人へと、代々の御法主上人に途切れることなく伝えられた「唯授一人の相承」が真実であることを教えてくださいました。

 折伏の許されない厳しい宗教政策によって人々の信仰が縛られた江戸時代、国家神道が強制され、違反する者には容赦ない弾圧が加えられた明治時代、それに続く第2次世界大戦の敗戦までの困難な時代にあっても、大聖人様の教えを少しも汚すことなく、今日まで護り伝えてくださった僧俗の確信ある信仰の礎には、日寛上人の御教えが厳としてあったのです。

〔御報恩に励もう〕

 総本山では、9月18日と19日の両日、日寛上人の第三百回御遠忌が執り行われます。佛乘寺からも代表の方2名が参詣されます。皆でお山に足を運び、御報恩の法筵に列なりたいところですが、割当人数の関係もあり、登山参詣をしての御報恩は叶いませんが、各自が受持の御本尊様に「感謝の心」で向かい奉り、あらためて自行化他の信心をお誓いしましよう。

(朔日講〔聖寿804年8月1日〕 にて)