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「国府尼御前御書」

国府尼御前御書』弘安元年 57歳 御書740㌻ 10〜11行目

日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげを浮かぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。

〔大聖人の御身は月と日に〕

日蓮のことを恋しく思うときには、朝に昇る太陽や、夕方に顔を出す月を拝みなさい。日蓮はいつも太陽や月に姿を映し出しています。また生まれ変わった来世では、霊山浄土でお目にかかることができます。

《『国府尼御前御書』》

 文永11年(1274年)6月16日に認められ、佐渡の国府尼と千日尼に与えられたお手紙です。御眞蹟が佐渡の妙宣寺に伝えられております。妙宣寺は阿仏房の自宅をお寺にしたと伝えられております。残念なことに、現在は日蓮正宗から離れ、身延派に所属しております。日興上人と深い縁のある妙宣寺です。富士の教えに立ちかえるように、と折伏する使命は、私たち法華講衆にあります。大聖人様が佐渡配流中に、多くの人々が大聖人様の教えを信じるようになりました。その中心的な役割を担ったのが、阿仏房夫妻や国府入道夫妻、また中興入道等でした。

 佐渡の法華講衆は、日興上人が身延を離山され、富士に大石寺を開創された時には、日興上人を大聖人様より血脈を受け継がれた「本門弘通の大導師」とし、仏法の大師匠として仰ぎ奉り、謗法の地となった身延山久遠寺から離れ、富士大石寺の日興上人のもとで、広宣流布を目指していました。

《阿仏房のひ孫・日満師の存在》

 一例として、阿仏房のひ孫にあたる日満師の存在を挙げることができます。日満師は、元応元年(1319年)に富士重須におられました日興上人のもとで得度し、元弘2年(1332年)までの十数年間修行に励まれました。佐渡に帰国するにあたって、「日満阿闍梨は北陸道七箇国の法花の大別当たるべき者なり」(富士宗学要集八—145頁)と日興上人より、北陸道七箇国の折伏の責任者に任ぜられています。このことからも、日興上人と佐渡の法華講衆の深い縁を知ることができます。

 佐渡の法華講衆は、『開目抄』や『観心本尊抄』を著された時の大聖人様の御振舞を目の当たりにしております。御振舞から、末法の御本仏であられる、との確信を強くしたことは想像に難くありません。

《当抄成立の背景》

 当抄は、大聖人様が身延に入山されてから、わずか1ヶ月後に、阿仏房や国府入道がはるばる身延に登山参詣をした際にした認められたものです。佐渡から身延までの行程を考えますと、「大聖人様が身延に入られる」との知らせを受けた直後に出発しなければ、到底間に合いません。

 大聖人様が鎌倉を発って身延へ向かわれたのは5月12日のことでした。その折には、各地の信徒にその旨を伝える使者が遣わされたと考えられます。佐渡へもお弟子の一人が向かい、入山の消息を伝えたのでしょう。そして、そのお弟子はそのまま身延へ直行することになっていたと思われます。

 そこで阿仏房や国府入道は、「ぜひ私たちもご一緒に」と願い出て、結果として大聖人様の入山から1ヶ月後に登山することになったのではないでしょうか。この出来事は、佐渡の法華講衆がいかに大聖人様を慕い、深い信心を抱いていたかを示すものの一つといえます。

《『二箇相承書』と信仰の筋目》

 このような大聖人様への強盛な信心があったからこそ、大聖人様の御入滅に際して、日興上人が大聖人様の教えのすベてと身延山久遠寺を付属された『二箇相承書』を、堅く信じ奉ることができたのです。

『日蓮一期弘法付嘱書』

 弘安5年9月 61歳   (御書1,675㌻)

 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るベきなり。

 弘安五年壬午九月 日     日蓮花押

  血脈の次第 日蓮日興

『身延山付嘱書』

弘安5年10月13日 61歳   (御書1,675㌻)

 釈尊五十年の説法、白蓮阿閣梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

 弘安五年壬午 十月十三日    日蓮花押 

      武州 池上

 先にも述べましたが、妙宣寺は邪教身延派になっております。これも、大聖人様を御本仏と仰ぐことができなくなったからであり、信仰の筋目を違えた結果です。創価学会ばかりではなく、このような例が少なくありません。私たちは、彼らを他山の石として我が身を省みることが大切です。

《当抄のあらすじ》

 冒頭には千日尼の御供養に対する御礼があり、この手紙を千日尼と国府尼の二人がそろったところで人に読ませ(日蓮の言葉を)お聞き下さいとあります。続いて、国府尼からの単衣(ひとえぎぬ)の御供養に感謝のお言葉があり、大聖人様に御供養申しあげる功徳が、釈尊を一劫もの長い間供養する功徳や、十号具足の如来を供養する功徳よりも勝れていることを、法華経や妙楽の言葉を引用して述べられ、内々に大聖人様が釈尊よりも尊いお立場にあることを示されます。

 さらに、歴史上大聖人様ほど日本国中の人々から迫害を受けたものはいないが、御自身には失があるのではなく、日本の国を助けようと(法華経を弘めた)からである、と記されます。

 そして、今月の拝読御書に続きます。次にその箇所の全文を挙げます。

尼ごぜん(御前)並びに入道殿は彼の国に有る時は人め(目)ををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせ(責)めをもはヾ(憚)からず、身にもか(代)わらんとせし人々なり。さればつら(辛)かりし国なれども、そ(剃)りたるかみ(髪)をうし(後)ろへひかれ、す、(進)むあし(足)もかへりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてやありけんと、をぼつかなかりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫(おとこ)を御つか(使)いにてつか(遣)わされて候。ゆめ(夢)か、まぼろし(幻)か、尼ごぜん(御前)の御すがた(姿)をばみ(見)まいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出づる日、ゆう(夕)ベにい(出)づる月ををが(拝)ませ給へ。いつとなく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

  六月十六日 日蓮花押

さどの国のこうの尼御前

(現代語訳)

国府尼御前と国府入道殿は、(日蓮が)佐渡に配流されていた折、昼間は人目をはばかり、夜陰にまぎれて食べ物を届けてくださいました。またある時には、国の責めも恐れず、(日蓮の)身代わりになろうとさえしてくださいました。(佐渡を去ることが決まった時)辛いことが多かった佐渡での日々を思い返せば胸に迫るものがありましたが、それにもまして、恩ある人々と別れなければならない辛さは、髪を剃っているにもかかわらず、なお後ろ髪を引かれるような、また、前に進むべき足が後ろに向かうような思いをしました。

(あなた方と)どのような過去世での縁で、かくも深きつながりを得たのかと不思議に思っておりましたところ、(こんどは)また、いつのまにか、遠く離れた身延の地まで、とても大切な夫を御使いとして遣わされました。(ご主人にお目に掛かったのも夢か幻のようです)尼御前のお姿を拝見することは叶いませんが、お心はここにおられるように思います。日蓮を慕わしく思われるのであれば、朝な朝なに出る日や、タなタなに出る月に手を合わせてください。(日蓮は)常に日や月の光に影を浮かべている身です。また来世には、霊山浄土に参り、そこで必ずお目にかかりましょう。

《10月6日は中秋の名月》

 今月の6日は「中秋の名月」です。今はしておりませんが、昔は日蓮正宗でも「お月見のお経」をしていたそうです。若いころに先輩からお聞きしたところによれば、旧暦の8月15日に、縁側に祭壇を設えて、三宝にお菓子や果物などをお供えし、昇ってくる満月に向かつてお経を読んだ、とのことです。

《日月と諸天善神》

四条金吾御消息』には、

かまくらどの(鎌倉殿)の仰せとて、内々佐渡の国へつか(遣)はすべき由承り候。三光天子の中に月天子は光物(ひかりもの)とあらはれ竜口(たつのくち)の類(くび)をたす(助)け、明星(みょうじょう)天子は四・五日已前に下りて日蓮に見参(けんざん)し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定めて守護あるべきかと、たのもしたのもし」  (御書479㌻)

とあります。

 意は、「北条時宗の命で、内々に佐渡に流罪されることを聞きました。日天子・月天子・明星天子の三天子の中で、月天子は光物となって現れて竜の口法難のおりに日蓮の命を助け、明星天子は4〜5日前に降りてきて日蓮に見参しました。残りは日天子だけですが、必ず日蓮を守護するでしょうから、頼もしいかぎりです」というものです。この御文から、日天子をはじめとする三光天子は諸天善神であることがわかります。

 大聖人様は、『法華取要抄』で、「今法華経に来至して実法を授与(じゅよ)し、法華経の本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日・月・四天・竜王等位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり。若し爾(しか)れば今我等天に向かって之を見れば生身(しょうじん)の妙覚の仏が本位(ほんい)に居(こ)して衆生を利益する是なり」  (御書734㌻)

と仰せです。「略開近顕遠」は、法華経の寿量品の一つ前の従地涌出品第十五で説かれたものです。略は「ほぼ」と読み、釈尊がインドに生まれて仏と成ったという「始成正覚」から一歩深く進め、久遠の昔から仏であり、多くの人々を導いてきたことを「ほぼ」明らかにしたことを言います。つまり、華厳経から法華経の迹門までの間に導かれてきた大菩薩や声聞・縁覚・日天子・月天子などの在世の衆生が、「略開近顕遠」が明かされたことで妙覚という究極の仏となり、衆生を利益する、と教えてくださっております。

《大聖人様と日天子や月天子の関係を御教示くださる日寛上人》

 さらに総本山第26世日寛上人は『法華取要抄文段』で、

 『法蓮抄』の、

一々の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり」 (御書819㌻)

や、『四条金吾釈迦仏供養事』の

日天子と申すは(乃至)眼前の利生なり」 (御書993㌻)

や、当抄の、

月ををが(拝)ませ給へ。いつとなく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり

等の御文を挙げられて、次のように仰せです。

相伝の法門なり。(中略)本因妙の教主釈尊・日月・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん

(御書文段522㌻)と。「これは御相伝の法門であり、久遠元初の教主釈尊と、日天子・月天子と日蓮大聖人様は名前は異なっていますが、一体です。諸天が私たちを守護するのは、御本仏日蓮大聖人様が御護り下さっていることです」との意です。

《日寛上人の御指南を拝して今月の拝読御書を拝する》

 佐渡の国府尼たちは、未だ御本尊様を御下附いただいていない時期だったと思われます。ですから大聖人様は、「日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり」と仰せになり、「常に出づる日、ゆう(夕)べにい(出)づる月ををが(拝)ませ給へ」と信心を励まして下さったのです。

 私たちはありがたいことに、御本尊様を受持することが叶っています。御本尊様を受持していることは、1年365日、昼も夜も大聖人様に見まもっていただいていることになります。この確信は、不安や迷いなく真っ直ぐに進むことができる大本です。堅く信じるとなお御加護が増します。御本尊様を受持することができる我が身の福徳に感謝しましょう。

《意義ある10月を、折伏・弘教の信心で充実させよう》

 10月12日は、本門戒壇の御本尊様を御図顕遊ばされた日です。翌10月13日は、日蓮大聖人様の御遷化の日です。私たち法華講衆にとっては、意義深い月であるといえます。大切な月を、さらに充実したものにする上で、折伏・教化の信心にいよいよ励んでまいりましょう。ご精進・ご精進。

(朔日講[聖寿804年10月1日]にて)