
法華経第四巻の「法師品」には次のように説かれています。
「ある人が仏道を求めて、一劫もの長い間、合掌して仏の前で仕え、無数の偈を唱えて佛を讃歎したとする。この讃歎したことにより、計り知れない功徳を得ることができるであろう。法華経を持つ人を讃え、供養することは、その福徳がさらにその上を行くのである」と。
この経文の要旨は、釈尊ほどの尊い仏を、身・ロ・意の三業を尽くして、一中劫もの長い時間、心を込めて供養するよりも、末法の悪世において法華経の行者を供養する功徳のほうが、はるかに勝れていると説かれている、ということです。
一見すると信じがたいことのように思われますが、これは仏の金言であるゆえに、疑うべきではありません。
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《語句の意味》
〇三業=三業は身口意の三業のこと。身と口と意で行う業のこと。業には善業と悪業の2種類がある。相応は合い叶うことで、身と口と意の三つが一つになっていること。ここの御文では、身と口と意が一つになって仏様を供養したこと。
〇一中劫=諸説あります。例えば160km四方の土地を塀で囲み、その中を芥子粒で満たし、その芥子粒を100年に1粒ずつ取り出してなくなる時間のこと、というものがあります(塀の高さには触れていません)。あるいは、43億年という説もあります。どちらにせよ、私たちの想像もおよばない長い長い時間を表す言葉です。
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《釈尊と末法の法華経の行者》
大聖人様は法師品の経文を解釈されて、「釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候」と仰せになります。これは、釈尊よりも「末法の法華経の行者」が勝れていることを述べられたものです。「末法の法華経の行者」は日蓮大聖人様のことですから、釈尊よりも日蓮大聖人様が尊いお方であることをこのようなお言葉で私たちに教えてくださっているのです。これとおなじようなお言葉は諸御書に出てまいります。
『富木殿御返事』
「粗(ほぼ)経文を勘(かんが)へ見るに日蓮が法華経の行者たる事疑ひ無きか」
(御書584㌻)
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『弥源太殿御返事』
「日蓮は法華経の行者なる故に、三類の強敵あって種々の大難にあへり」
(御書722㌻)
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『種々御振舞御書』
「今日蓮は日本第一の法華経の行者なり」
(御書1,059㌻)
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日蓮は釈尊より尊いのだ、とは直接的な表現では仰せになられませんが、内々には久遠元初の仏様であられ、釈尊よりもはるかに尊いお立場にあることをこれらのお言葉で教えてくださっているのですから、信じないわけにはまいりません。
「まことしからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず」なのです。
ところが、ウィキペディア上には、当抄の御眞蹟を所持している佐渡妙宣寺の本尊が「釈迦如来」としております。また妙宣寺を紹介したネット上の記事では「阿仏房妙宣寺にはご本尊釈迦如来、日蓮上人筆書状3巻」(http://chigusa-lifestyle.jp/myosenji 参照2025年9月24日)とありますので、妙宣寺の本尊は釈尊像だと思われます。
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大聖人様は、
『草本成仏口決』で、
「一念三千の法門をふ(振)りすゝ(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり」
(御書523㌻)と仰せです。南無妙法蓮華経と御認めの御本尊様は大聖人様しか顕すことができないものであることをお示しです。また、
『観心本尊抄』では、
「地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書661㌻)
と仰せになり、大聖人様が法華経本門を説いて釈尊を脇士とするー閻浮提第一の御本尊様を建立される旨を述べられます。
このように御本尊様についての明確なお言葉があるにもかかわらず、釈尊を本尊とする姿は、筋目を違え謗法に染まった何よりの証拠です。
阿仏房や千日尼、国府入道夫妻等の佐渡国の法華講衆の嘆きはいかばかりでしょう。妙宣寺の一刻も早い覚醒を願い、祈るだけではなく、折伏をかけたいと思っています。大聖人様、日興上人への御報恩を尽くすために。
(広布唱題行[聖寿804年10月5日]にて)