広布唱題行配付プリント(聖寿805年3月1日)
3月8日は、日蓮正宗第二祖・総本山大石寺開祖・白蓮阿闍梨日興上人の781回目の御誕生日にあたります。
寛元4年(1246年)3月8日、甲斐国轍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)で、大井橘六と由比家の女(むすめ)のもとにお生まれになりました。祖父を河合入道といいます。大聖人様はこの時25歳で、比叡山や京都・奈良等で勉学に励まれていました。この年の3月23日に北条時頼が執権職に就いています。
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『原殿書』に示される日興上人の御決意
『原殿書』は、日興上人が身延を離山されるにあたっての御胸中を述べられた御書です。与えられたのは、地頭・波木井実長の四男、長義です(諸説あり)。原の地に住していたことから「原殿」と呼ばれていたようです。
本抄は正応元年(1288年)、身延において認められました。日興上人43歳の御時です。
御文には、宗祖日蓮大聖人様がお住まいになった身延を離れることは、大聖人様から御法を御承けになった弟子として、誠に申し訳なく、面目ないことであるとの率直なお気持ちが記されています。
しかしながら、五老僧や地頭・波木井実長らが大聖人様の御遺誡に背き、謗法に及ぶに至っては、その地にとどまることは、かえって正法を損なうことになる。日興上人はその現実を厳然と見据えられました。そして、たとえどこであろうとも、大聖人様の御正意を正しく守り、正しく後世に伝えることこそが、真の御報恩であると定められ、離山の御決意を明らかにされたのです。翌正応2年(1289年)春、日興上人は身延を離れ、祖父・河合入道の館に入られました。その後、南条時光の請いにより富士上野の南条邸に移られ、正応3年(1290年)10月12日、大石寺を建立され、大聖人様の正法を守り伝える御姿をお示しくださいました。
『原殿書』は、場所に執着するのではなく、正法そのものを守り抜くという強い御信念を示された御書です。私たちもまた、日興上人の「身延離山の御精神」を肝に銘じ、いかなる時代にあっても大聖人様、日興上人の御意を正しく受け継いでまいりましょう。
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『原殿書』 (日蓮正宗聖典・557㌻)
身延の沢を罷りいで候こと面目なさ、本意なさ申し尽くし難く候へども、打ち還し案じ候へば、いづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候らん。さりともと思ひ奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候らひぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当て覚え候へば、本意忘るることなく候。
〔現代語訳〕
身延を離山することは、大聖人に顔向けの出来ないことです。私の本心でもありません。このことは筆舌に尽くしがたいものがありますが、繰り返し繰り返し考えてみますに、いずれの所にありましても、大聖人様の仏法を天下に立て、正しく次の世に伝えることが肝要です。私はそのように考えますが、お弟子方は悉く大聖人様のお心に背いております。日興唯一人が、大聖人様の仏法の真髄をお承けし、広宣流布の本懐を成就すべき役目を担っております。大聖人様の御本意を決して忘れる事はありません。
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【語句の意味】
〇罷り出で(まかりいで)=退出する意の謙譲語。
〇面目なさ=面目は人に合わせる顔、世間への顔向け、体面、名誉。なさ、は無いこと。人に合わせる顔がないという意。ここでは大聖人に合わせる顔がないと拝した。っまり、大聖人から「身延山の別当たるべき事」と仰せつかっていながら退出しなければならない事になったということを大聖人に対し申し訳なく思う、との意。
〇本意なさ=本来であれば、謗法を犯した民部阿閣梨日向が身延を出るべきであるが、残念ながら地頭も謗法になってしまったので、日興上人の本心ではないが身延を離れなければならない、との意。
〇いずくにても=何処にあっても。
〇聖人の御義=大聖大の立てられた仏法、御法門。
〇御弟子悉く師敵対=大聖大が御入滅に先立って定められた六老僧。日朗・日昭・日興上人・日向・日頂・日持の本弟子6名を中心にして大聖大亡き後の事を託されましたが、日興上人を除く5名が退転してしまったことを指しています。
〇本師の正義=大聖大の立てられた一切衆生皆成仏道の大法。
〇本懐を遂げ=日蓮大聖人の御本懷。広宣流布のこと。