『法華証明抄』弘安5年2月28日61歳 御書1,590㌻
「命はかぎりある事なり すこしもをどろく事なかれ」
《ジタバタするな 日蓮を信じ 腹をくくって 題目と折伏だ》
大聖人様はこの当時、弟子に代筆をさせなければならないほど重篤なご容態でしが、時光を励ますために敢えて筆を執られ心血を注いで認められたのが当抄です。
大聖人様は当抄で、私たちに、「命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ」と教えて下さいます。1日生きれば、1日臨終が近づくのが私たちである。三世の生命から考えるならば、今生の100年など一瞬のようなものである。であれば、100歳まで生きることを考えるよりも、今日1日を御本尊様と共に生きることを思え、少しも驚くことなどないのである、と大聖人様は南条時光を通し、悪世末法に生きる私たちを導いて下さるのです。
病気は嫌なものです。病院など誰も行きたくありません。医師や薬と無縁の日々でありたいものです。ですが、生きているかぎりは病気になります。病気になることは生きていることです。病気ばかりではありません。経済苦も人間関係などの苦しみも生きている故のことです。生きることは苦しみなのです。
また現在、大聖人様の信仰に励んでいながら、重い病の床にあるならば、「すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か」との御教えを信心で拝さなくてはなりません。これまでのご信心により、即身成仏の功徳を受けることができるのです。成仏を妨害しようと「第六天の魔王」が病魔の姿を表して、私たちの信仰を試しているのです。病魔を恐れず、病魔に驚くことがなければ、必ず乗り越えられる、と励まして下さるお言葉を素直に信ずることができるならば、南無妙法蓮華経の大良薬を服用することになり、それはとりもなおさず病魔を克服する功徳として現れます。
南条時光は、「生苦」を乗り越える唯一の方法である「南無妙法蓮華経の御本尊様の教え」を信じ、この励ましを賜った時から50年もの後まで寿命を延ばし、総本山を建立寄進する大功徳を受けました。この現証を信ずるべきです。
今月は、この御書を拝し、自他共に励ましてまいりましょう。ことに、病で苦しんでいる方々と共に拝してまいりましょう。

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【次は『法華証明抄』全文です。ご拝読を】
『法華証明抄』
法華経の行者 日蓮花押
末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば、法華経の御鏡にはいかんがう(浮)かべさせ給ふと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なりとたしかに釈迦仏の金口の御口より出でさせ給ひて候を、一仏なれば末代の凡夫はうたがいやせんずらんとて、此より東方に、はるか(遥)の国をすぎさせ給ひておはします宝浄世界の多宝仏、わざわざと行幸ならせ給ひて釈迦仏にをり向かひまいらせて、妙法華経皆是真実と証明せさせ給ひ候ひき。
此の上はなにの不審か残るべき。なれどもなをなを末代の凡夫はをぼつかなしとをぼしめしや有りけん、十方の諸仏を召しあつめさせ給ひ
て、広長舌相と申して無量劫よりこのかた永くそらごとなきひろくながく大なる御舌を、須弥山のごとく虚空に立てならべ給ひし事は、をびたゞしかりし事なり。
かう候へば、末代の凡夫の身として法華経の一字二字を信じまいらせ候へば、十方の仏の御舌を持つ物ぞかし。いかなる過去の宿習にてかゝる身とは生まるらむと悦びまいらせ候上、経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候ひける者が、法華経計りをば用ひまいらせず候ひけれども、仏くやう(供養)の功徳莫大なりければ、謗法の罪に依りて貧賤の身とは生まれて候へども、又此の経を信ずる人となれりと見へて候。
此をば天台の御釈に云はく「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等云云。地にたう(倒)れたる人はかへりて地よりをく。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地にはたうれ候へども、かへりて法華経の御手にかゝりて仏になるとことわ(断)られて候。
しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども心は善人なり。其の故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば或は所領或は田畠等にわづらいをなし、結句は命に及ぶ人々もあり。信じがたき上、ちゝ(父)・故上野は信じまいらせ候ひぬ。又此の者嫡子となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人に、あるひはいさめ或はをどし候ひつるに、ついに捨つる心なくて候へば、
◇すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。
又鬼神めらめ此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。あなかしこあなかしこ。此の人のやまいを忽ちになをして、かへりてまぼ(守)りとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破七分の科に行なはれ、後生には大無間地獄に堕つべきか。永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が言をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし。
二月二十八日
伯耆房に下す
(現代語訳)
法華経の行者 日蓮 花押
釈尊が亡くなられた後の、秩序が入り乱れ人々が苦しみ惑う社会において、それを解決する方法が説き示されている法華経を、その教えの通りに信じ持っている者について、法華経の教えに照らし合わせてみますと、過去世に生を受けたときに、一万兆(一京)もの仏様に財や物をお供えして、仏様のお力が衰えないように、また盛んになるように力を尽くした人であると、釈尊がその尊いお口で御自ら仰っている、とあります。さらに、釈尊お一人の御言葉だけでは、後の世の私たち凡夫が疑いを起こすかもしれない、とご心配なさって、私たちの住む国土である娑婆世界のはるか東方にある宝浄世界におわします多宝仏が、わざわざお越しになり釈尊の御前において、「釈尊が説かれる妙法蓮華経は真実の教えです」と証明をされました。
このようにして多宝仏が法華経の真実を証明されたのですから、疑問はなくなりました。しかしながら、なお末代の凡夫が疑う心を起こすかも知れない、とお考えになり、あらゆる方角、あらゆる所から全ての仏を呼び集められました。そこに集まった仏の、無量劫という長い長い間に、一言も嘘をついたことのない広く長い御舌を、世界の中心にそびえ立つ須弥山のように、宇宙に並べ立てたことは特別のことです。
このことから、末代の凡夫の身として法華経の一文字二文字を信じ参らせることは、十方の仏の御舌を持つことになります。私の過去世におけるどのような行いで、このような身に生まれることが出来たのであろうか、と悦ぶばかりです。そこで経文を見ますと、過去に一万兆(一京)もの仏にお目にかかり、御供養を申し上げたからだ、とありました。しかし、法華経だけは信じることができませんでした。ところが仏を御供養した功徳が莫大でありましたので、法華経を信じなかった謗法の罪により、賤しく貧しい身と生まれながらも、法華経を信ずる人になることができた、と説かれております。
このことを、天台大師は、「地に依って倒れるものは地に依って立つ」と解釈されております。つまり、地に躓いて倒れた人が、地に手をついて立ち上がるように、法華経を誹謗して、三悪道に堕ち、あるいは人界や天界の六道に生まれても、今度は法華経の力を得て仏に成ることができる、ということです。
しかるに、この上野の七郎次郎(南条時光)は末代の凡夫です。戦の時には人を殺す役目の武士の家に生まれたのですから悪人と言わなければなりませんが、心は善人です。何故ならば、日蓮の教を上一人から下万民に至るまで信
じないところ、また、たまたま信じる者があっても、信仰の故にあるいは所領を、あるいは田や畠を取り上げられたり、挙げ句の果てには命に及ぶ人もある中で、日蓮の信仰を貫いているからです。このように日蓮の教えを信じることは簡単ではありません。ところが、亡き父親の上野殿は信仰をされ、また、子の時光は跡継ぎとなり、誰からも勧められないのに心から日蓮の信仰に励み、身分や地位によらずすべての人々から、信仰をやめるように、と脅されたり諌められたりしましたが、ついに信仰を捨てることがありませんでした。そこで、
◇いよいよ仏に成ると見ておりましたところ、そうはさせないと、天魔や外道が、病魔となって脅しているのでしょうか。私たちの命は限りあるものです。病気になったとしても少しも驚くことはありません。それよりも、病魔に負けないように御信心に励むべきです。
時光に取り憑いている鬼神に申す。鬼神達よ、この時光を悩ますことは、剣を逆さまにして呑み込む行為である。また、大火を身に抱きかかえるようなものである。過去・現在・未来、さらに十方の仏の大怨敵になることである。大変に恐ろしいことではないか。故に、この時光の病を即座に治し、反対に守護の善神となって、鬼道からの大苦を抜き去りなさい。この日蓮の言いつけに背いて、病を治さなかったならば、現世では頭が七つに割れる罪を受け、来世には大無間地獄に堕ちること疑いがない。また、これより後は、時光に障りをなしてはならない。日蓮のこの言葉を軽んじたならば、後悔をするぞ。必ず後悔をするぞ。
二月二十八日
伯耆房日興にこの手紙を託します。
(朔日講〔聖寿801年10月1日〕にて)