『持妙法華問答抄』 弘長3年42歳 御書300㌻
願わくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
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◇自行化他でよき思い出を
願うところは「現世は穏やかであり来世には善い処に生まれる」との功徳ある妙法を持つことこそが、今生での最高の名誉であり、今世の名誉は来世を成仏に導くものです。従ってするべきことは、こころを一つにして南無妙法蓮華経と自らも唱え、周りの人たちにも勧めることです。それこそが今世人界での最高の思い出となります。
〇「現世安穏・後生善処」=法華経譬喩品第五の文。現世は安穏にして後に善処に生ず、と読む。意は、法華経の修行をすることにより、現世では安穏な日々を過ごすことが叶い、来世には善きところに生まれあわせることができる、ということ。
〇名聞=よい評判や名誉。
〇弄引=難しい言葉で辞書にも出ておりません。漢和辞典には「弄」について、もてあそぶ、巧みに飾る、為す、等とあります。「引」は、弓を引くから始まり、引つ張る、手に取る、持つ、導き入れる、進む、出発、争うなど多様です。
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「弄引」と「弄胤」
大聖人様が所持されていた『法華経 (法華経巻・無量義経一巻・観普賢菩薩行法経一巻 )』の余白部分に、天台大師や妙楽大師などが示した経文の解釈を書き込んだものが、『注法華経』と名付けられて、現在まで伝えられております。
その『注法華経』に、天台大師の『法華玄義』を引用され「始自鹿苑皆是法華哢胤」、「寂滅道場悉為法華弄胤」、「当知。弄胤豈止今耶」 (『注法華経』三巻裏 )等と書かれております。ご覧になっておわかりのように大聖人様は「弄引」ではなく「哢胤」、「弄胤」とお書きです。なぜ「引」と「胤」の違いがあるのかを考えてみました。
この部分の学林版『法華玄義釈籖会本上』では、
「寂滅道場より已来、ことごとく法華の弄引なり(乃至)當に知るべし、弄引、豈ただ今のみならんや」 (学林版法華玄義釈籖会本上 387㌻から 389㌻)とあり、「引」をあてております。意味は、釈尊が説かれたすべての教えは法華経の弄引である、と言うことです。その「弄引」について妙楽は、「弄引はただ是れ方便なるのみ」と解釈しております。つまり、釈尊の教えはすべてが法華経に導くための方便の教えである、と言うことです。
この妙楽の解釈を『持妙法華問答抄』にあてはめてみますと、「妙法を持つ」ことが後世の方便となってしまいます。これでは意味が通じなくなってしまいます。
そこで大聖人様は『注法華経』に、「弄引」ではなく、〔継ぐ、跡継ぎ、血筋、血統、たね〕などの意味がある、「胤」を用いた「弄胤」とされたのではないかと拝察いたします。
仮に天台大師が「弄引」と認めていたとしても、あえて大聖人様は「引」と同じ音である「胤」をあて、「胤 (たね )」つまり「種」の意義が込められていることを明かされたのではないかと。つまり法華経の注釈をするにあたり、天台や妙楽の「文上・脱益」の立場ではなく、そこから一歩深く踏み込み、「文底・下種」の仏様のお立場を明らかにされる上から「弄胤」とお書きになられたと拝するのは考えすぎでしょうか。
残念なことに『持妙法華問答抄』は御眞蹟が伝えられておりませんので確かなことはいえませんが、『注法華経』で「弄胤」とありますことから、「只今生の名聞、後世の弄胤なるべけれ」と改めることで、大聖人様の仰せの意がより明らかになるように思いますが、いかがでしょうか。
前世で妙法蓮華経の下種を受けた。その種によって飾られる、すなわち成仏が叶うと。そのためには、下種を受けただけ、妙法を持つだけの信仰から、「南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみ」の信仰こそが「後世の弄胤」である。換言すれば、〔自行化他の信仰・折伏のある信仰〕こそ、今世で受けた「種」が縁となり因となって、来世で「わが身を飾る」になることを教えて下さる、と拝することができるのではないでしょうか。
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《現世安穏・後生善処》が大切なわけ
【過去:現在:未来】
「現世安穏・後生善処」について天台は『法華文句』で「現世安穏後生善処とは、即ち是れ報因に報果を感ず」と説いています。現世の因によって来世の果があるということは、生死の繰り返しの中にある私たちの生命にも、因果の法則があてはまる、ということです。
そうしますと、現世に安穏であるように力を尽くすことで、来世が安穏になる、という御文であることが理解できます。御本尊様に御認め下さる「為現当二世」の御文は、現世と来世の為の御本尊である、という意味です。つまり、御本尊様の法力と仏力は現世ばかりではなく未来まで及ぶのである、とのお言葉なのです。現在の生活が、変わったこともなく心静かに穏やかである「現世安穏」は皆が願うことです。
国と国との戦争や、人と人の争いがない社会。経済が安定し、貧富の差がなく、平等に教育を受けられ、人種や出自や男女の性別などの差別がなく個人が尊重される世の中。地震や台風などの自然災害から身が守られるような現世にするには、御本尊様の仏力と法力を用いることこそ唯一の道であることを私たちは知っております。仏力と法力の上に、私たちの信カと行力を加えた四力が合わされば、「現世安穏」が実現します。
このことを私たち一人ひとりにあてはめて考えてみることも大切なことです。親を大切にする、家族や友人•知人と仲良くする現世の因は、来世の果報となります。今すぐに結果は出ないかも知れませんが、功徳として必ず現れることを疑ってはなりません。
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【昨日:今日:明日】
「後生善処」は未来を、来世を信じることです。明日を信じるのと同じです。明日を信じて今日を生きる。明日があることがわかつているから、今日の辛さも乗り越えられる。映画「風と共に去りぬ」のラストシ—ンでビビアン・リ—は「 Tomorrow is another day」と言います。翻訳はまちまちですが、「辛いことも苦しいことも色々あるけれども、今日と違う明日があるのだから希望を持って進んで行こう」という意味でとらえることができます。
経文に「後生善処」と来世が希望に満ちたものであることを説き、日蓮大聖人様は『御義口伝』に「未来成仏顕然 (けんねん )なり。所謂南無妙法蓮華経なり」 (1,800㌻)と教えて下さるのは、苦悩する現代人への励ましの大良薬を与えて下さるものではないでしょうか。
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【来世を信じることで得られる功徳】
ここで思いつくままに来世を信じる功徳を挙げてみます。
①安心感と希望
来世を信じることで、死後の存在や次の生まれ変わりに対する希望や安心感を持つことができます。これにより、死への不安や恐れが和らぎます。
②人としての行動の指針
来世を信じることで、自らの行動や行いが将来の生まれ変わりに影響を与える、という意識を持つことができます。これにより、人としての行動の指針を持って生きることができるようになります。。
③心を鍛える修行
来世を信じることで、自己の心を鍛える修行に励む意欲が生まれます。このことは、現世の苦しみや困難を乗り越えるための自己を成長させる力となります。
④生きる目的が明確になる
現世の修行は来世の六道輪廻から解放されることを目的の一つとしており、一生成仏を目指すことは、生きる意味や目的を明確にし、人生の意義を高めることができます。
※六道輪廻=①地獄界・②餓鬼界・③畜生界・④修羅界・⑤人界・⑥天界の 6種類の境涯を六道と言います。迷いの衆生は、この六道の世界に生死を際限なく繰り返すことを言います。
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6月の御聖訓『持妙法華問答抄』はこれまでに御講などで何度も拝読しております。今回は、少し見方を変えて「弄引」と「弄胤」と、来世を信じることの大切さを拝してみました。来世を信じることで、現世がより充実したものになることを知っていただければ幸いです。また、折伏に際して、有用なことではないかと考えます。
今生人界のよき思い出、をつくることができますように、と念じております。
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注法華経第三巻 24紙表

注法華経第三巻 24紙裏

『注法華経』の御眞蹟写真版です。表には御経文が書かれております。当該部分は法華経化城喩品第七の終わりに近い所で、「欲重宣此義 而説偶言から菩薩所行道」までが書かれております。新編法華経では281㌻から284㌻までです。経文の行間、余白部分に細かい字で書き入れをされております。裏にも同じように『玄義』や『起信論』などが引かれております。
この『注法華経』から大聖人様は一切経だけではなく、天台や妙楽、その他の論師人師の書かれたものに目を通され、目を通されるだけではなくこのように書き留められていることが拝されます。恐れ多い言葉になりますが、修学の厳しさを目の当たりにすることができる御書です。
(朔日講〔聖寿802年6月1日〕にて)