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「諸法実相抄」

宗祖日蓮大聖人御会式並に広布唱題行拝読御書〔聖寿802年 11月〕

 宗祖日蓮大聖人様の御会式を奉修いたしましたところ、檀信徒ごー同には万難を排してのご参詣、誠にご苦労様でございます。大聖人様が皆さまのご信心を御嘉賞下さっていることと拝察申し上げます。大聖人様が御嘉賞下さる、ということは、過去遠々劫の罪障を消滅し、現世で功徳を積み、未来の成仏が定まった、ということです。尊い信心修行であると存じます。

 この御会式はご案内の如く、私ども日蓮正宗の僧俗にとりましては一年で最も大切な法要であることは皆さまご承知の如くであり、ご承知であるからこそ、今日ただ今本席に連なることが出来ているのであります。有り難いことであり、『諸法実相抄』で

 「まことに宿縁のを(追)ふところ予が弟子となり給ふ」(御書688㌻)と仰せ下さるように、過去世の素敵な縁がある故である、と拝するものです。そのように拝しますと、ご参詣の皆さまのお顔が、お一人おひとりが貴い日蓮大聖大様のお弟子のお顔であり、やがて仏様になられるお顔に見えてまいります。いや、すでに仏である、と思えてならないのであります。

 こう申しますのも、お世辞ではありません。大聖人様は『開目抄』では、「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」(御書562㌻)と仰せになり、『四菩薩造立抄』には、「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずればー閻浮提第ーの富める者なり」(御書 1,369㌻ )と記されます。ー閻浮提、つまり全宇宙と拝しても良いと思います。そこで最も富めるものが日蓮である、と断言されるのです。末法の法華経の行者、末法の御本仏の御確信です。

 世間的な権力をほしいままにして、地位や名誉を誇り、経済的にも恵まれている人は大勢おります。一方の大聖人様は、幕府から迫害され、食べ物や着る物にも不自由な日々をおくられております。世間法の上では日本第一の貧しい者でも、ひとたび仏法という尺度ではー閻浮提、つまり全宇宙第一尊い生命の者である、と。全宇宙で最も富めるものが日蓮である、と断言されるのです。末法の法華経の行者、末法の御本仏の御確信が示されております。その御本仏の宿縁深き弟子檀那が私たちであることを忘れてはなりません。

 日如上人は『持妙法華問答抄』の「持つ処の御経の諸経に勝(すぐ)れてましませば、能(よ)く持つ人も亦(また)諸人にまされり」(御書297㌻)を引かれ「ー閻浮提第一の大御本尊を持つ我らこそ、一切衆生のなかにおいて第一の者であります」〔大日蓮 18年 8月号〕と私たちを励まして下さっております。皆さまが尊い立場にあることを、御経文と御書を通して学びたいと思います。

〇智慧第一の舎利弗も「信」から

 毎朝読経いたします方便品に

爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗」とございます。この部分の漢文を訓読して仮名交じりの文に書き下したのが次の文です。

①爾の時に世尊、三昧より、安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。

となります。意味は、「それまで深い深い思索に入られていた仏様(釈尊)は、静かに起き上がり、舎利弗に告げました」となります。

 「告げる」を辞書にあたりますと、「知らせ教える、説く」と出ております。このことから、方便品は釈尊が弟子の中でも特に智慧第一と称される舎利弗を相手にして説かれていることがわかります。

 私たちが読誦する中に「舎利弗」の名前が繰り返し 6回も出てきております。ここに説かれる「三昧」は無量義処三昧のことで、法華経の序品の「無量義を説き終わり、結珈趺坐して無量義処三昧に入り身も心も動ずることがなかった(趣意)」(新編法華経 59㌻ )のことです。この無量義疏三昧について、天台大師は法華『文句』の中で、「無量義とは法華のことでありこの後に直ちに禅定に入った(趣意)」(会本上 312㌻)と釈しております。つまり、無量の義を生み出す根源の法、唯一つの法である妙法蓮華経に心を定めて、深く思いを巡らす(思索・思惟)境地にあられた、ということです。やがてその三昧から静かに起き上がり、智慧第一の弟子・舎利弗に語りかけるところから方便品の説法が始まります。

 妙法に心を定めて深く思索された後の第一声を舎利弗は待ち焦がれていたことと思います。仏様はどのような真理を説き示してくださるのだろうと。

  続いて、

「諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入」

②諸仏の智慧は、甚深無量なり。其の智慧の門は、難解難入なり。

 諸仏の智慧はとても深く量りしれない、その智慧を理解しようとしても、教えの門に入ることさえも難しい、と釈尊は述べられるのです。

 待ちに待ったお言葉が、「難解難入」です。舎利弗はガッカリしたでしょうね。期待が大きかっただけに、仏の教え、真理は理解するのが難しいだけではなく、それを理解しようと思っても教えの門に入ることさえも難しい、というのですから。

 皆さまが舎利弗の立場であったら如何でしょうか。私だったら、「御師匠さん、それはあんまりではありませんか」と席を立ってしまうかも知れません。

 続いて、

「止。舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相」

③止みなん、舎利弗。復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。

と説かれます。

 仏の悟られた教えは、舎利弗ばかりか、一切の声聞界や縁覚界の衆生も理解することのできない教えである。最も不思議で最も理解し難い教えである。理解することができるのは仏と仏だけである。だから説くことはもう止めます、と述べられるのです。ところが、次には十如是が明かされるなど説法を続けられるのです。仏の慈悲を思います。

 仏様のお弟子の中で、智慧が一番勝れているとされる舎利弗に向かって、「あなたの能力ではとても理解することができませんので、もう説くことはもうやめにしましょう」といわれるのが、私たちが毎朝・毎タの勤行で読誦する法華経なのです。舎利弗ですら理解できない、といわれるのですから、私たちのような凡夫が理解することは不可能である、ということなのです。

 忙しい中で、時間をやり繰りして勤行をしても、仏様の教えを理解することが出来ないのであれば、しない方がましだ、と舎利弗は思ったかも知れません。私だったらそう思います。

 そのように思う者たちのために、仏は寿量品で「信解」を説きます。

<寿量品第十六>

「汝等当信解。如来誠諦之語。復告大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。又復告諸大衆。汝等当信解。如来誠諦之語」

④諸の善男子、汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし。復大衆に告げたまわく、汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし。又復、諸の大衆に告げたまわく、汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし。

 <汝等当信解>信ずれば理解できる・成仏は信から

 仏はその場にいた菩薩をはじめとするすべての人々に、「貴男達は心から如来の真実の言葉(如来誠諦之語)を信じるべきです。信ずることにより仏の真実の言葉を理解することができるのです」と。また重ねて人々に告げました。「貴男達は心から如来の真実の言葉(如来誠諦之語)を信じるべきです。信ずることにより仏の真実の言葉を理解することができるのです」と。さらにまた重ねて人々に告げました。「貴男達は心から如来の真実の言葉(如来誠諦之語)を信じるベきです。信ずることにより仏の真実の言葉を理解することができるのです」と。 3回も繰り返し説かれるのです。ここに「」の大切さが明かされております。お経文にありますように、仏様の覚られた真理は私たち凡夫には到底理解することはできないものです。しかし、理解できないのであれば、いくら素晴らしいものであっても無いのと同じことです。そうならないために、難しいけれども信ずれば理解できるのだから安心しなさい、と私たちに信を勧め、励まして下さっているのです。

 折伏の時に「勉強して納得したら御授戒を受ける」という場面に度々遭遇します。そのようなときに、私は此の経文を見せて「舎利弗様でも理解できないのに、失礼ですが貴方が理解できるはずはありません。先ずは信ずることです」と言います。「そうですか」と素直に言う人はあまりいませんが…。

 凡夫はあくまでも信が先である、私たちの立場では、大聖人様のお言葉を信じ、御本尊様を信ずることで仏の智慧を得る、つまり成仏が叶う、ということです。そこで、大聖人様は私たちに仰せ下さいます。諦めてはなりません。法華経を理解することができるのであれば、私たちは「唯仏与仏」の世界に入ることができます。そのためには南無妙法蓮華経とお題目を唱えることである、と。

〇汝等当信解-信じれば理解できる

⑤『新池御書』(御書 1,461㌻)

智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり。己が智慧にて仏にならずと説き給へり。

 方便品で、舎利弗は釈尊に、貴方には理解できない難しい教えです、といわれましたが、信ずることで仏になることが叶いました。智慧で理解するのではなく、「信」ずることで理解することができるようになるのです。

 『御義口伝』には、

「信の処に解あり、解の処に信あり。然りと Bも信を以て成仏を決定するなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云」(『御義口伝』1,174㌻)と示されます。信ずることで教えを理解する、理解することで信が深まる。しかし、結局のところは信によって成仏を決まるのである、と。私たちの立場では、御本尊様を受持すること、受持した御本尊様に向かい奉ってお題目を唱えることで成仏が叶う、ということです。さらに『義浄房御書』には、 

『義浄房御書』(御書668㌻)

法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界、十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり。

 ここに「唯仏与仏の境界」と仰せ下さることに注目したいと思います。方便品でも、仏と仏だけが知ることのできる最も難しい教えが法華経である、と説かれております。つまり法華経信解の功徳は、仏様と仏様しか知ることのできない智慧を、お題目を唱える私たちが受けることができる、ということなのです。さらにこの御文について申し上げれば、「十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり」とございます。大聖人様が発迹顕本された後には、勿体なくも有り難いことに、御本仏日蓮大聖人様と「唯仏与仏」なのです。

 方便品・寿量品に説かれ、大聖人様が仰せ下さり、御法主上人のお言葉にあるのですから、我が身の尊さ、素敵な私であることを常に心の中に留めて置こうではありませんか。

 日如上人は冒頭で拝しましたお言葉に続けて、

一切衆生のなかにおいて第一の者であれば、折伏に当たっても我らはもっと自信を持ち、確信を持って、正々堂々の折伏を行ずべきであります。自信に満ちた、確信あるひとことひとことが、相手の心を動かすのであります。我々にはー閻浮提第一の本門戒壇の大御本尊がましますことを銘記し、いかなる障魔も恐れることなく、一意専心、折伏に励むところに必ず大御本尊様の御照覧があることを確信して、いよいよ折伏に励んでいただきたいと思います」と仰せです。

 新型コロナウィルス感染症が 5類になったとは申しましても、未だに感染者が出ております。有効な治療薬も開発途中のようです。ソ連のウクライナ侵攻、イスラエルのガザへの攻撃なども他国のこととは思えません。地震や台風などの自然災害などなど、悪世末法、濁悪の世相ではございますが、このような世相も、御本仏の御眼には「成仏の為の修行に励むことのできる環境である。この時に正法を流布することで成仏が叶うときである」と折伏の修行を教えて下さっております

    10月の御講で『佐渡御書』を拝読しました。復習をします。

「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人(かとうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し」(御書579㌻)

 悪世末法ですから、「政治は利益追求の場と化し、国益よりも個人的な利益を優先している。政治家たちは問題を解決する代わりに党派対立に明け暮れている。政治の決定は国民の声を無視し、特定の利益団体に有利な形で行われている」等々の思いをしております。嘆く私たちに、大聖人様が教えて下さるのが『佐渡御書』の一文ではないでしょうか。「獅子王の如くなる心を持てる者」は折伏をする者を指してのお言葉です。折伏をするものは仏に成ることが出来る、換言すれば、悪世にあっても幸せになれる、悪世を善世に変えることができる、と。

 御会式に参詣される大切な意義は、広宣流布への思いを新たにすることです。自行化他に亘るお題目を唱える私たちは、学んだように、唯仏与仏の貴い身です。素敵なお一人おひとりなのです。勤行の時に、「唯仏与仏」の箇所に差し掛かつたならば、素晴らしい功徳を受けている我が身であることを思い、自信と誇りをもって折伏の情熱を滾らせて、一人がひとりの折伏を実践してまいろうではありませんか。

 今年の夏が厳しい暑さだったせいか、秋の深まりは各別の感があります。漂う金木犀の香りも、花水木の紅葉や赤く染まった実も例年以上に心を慰めてくれるようです。今年は温州ミカンが豊作で、鳥たちに食べられる前に収穫が出来るようにと、鳥とミカンとのにらめっこをする毎日です。

 朝夕は冷え込み、日中には上着を取りたくなるような、気温の変化が激しい季節です。檀信徒の皆さまのより一層のご健勝を御祈念申し上げます。

 御会式のご参詣、誠にご苦労様でした。またおめでとうございました。

(宗祖日蓮大聖人御会式並に広布唱題行〔聖寿802年11月〕にて)