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「唱法華題目抄」

末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成すべきか。

〔自信をもって妙法を勧めよう〕

末法に生まれた人々には仏の善根がありませんので悪道に堕ちます。同じように悪道に堕ちるのであれば、強く法華経の信仰を勧めて逆縁を結び、悪道から救ってまいりましょう。

〔逆縁でも成仏が叶う妙法〕

〔逆縁と順縁〕

〔逆縁を警えて「毒鼓の縁」という〕

 「毒鼓の縁」は折伏のときによく用いられる言葉で、御書中にもしばしば引用されます。原典は『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)です。『大般涅槃経』は、『御講聞書』に「涅槃経の題号にも大般涅槃経と云ひて大の字あれども妙の字無し」(御書1,819㌻)とありますように、涅槃経のことで「捃拾教(くんじゅきょう)」とも言われます。捃拾は拾い集めるの意です。字のごとく法華経の教えから漏れた人々を拾(ひろ)い上げるために説かれました。

 その中に「譬ば、人有りて雑毒薬(ぞうどくやく)を以て大なる鼓に塗て、衆人の中に於て声を発せしむるに、心聞かんと欲すること無しと言えども、是を聞て皆死す。(乃至)是の大般涅槃経もまたまた是の如し。在々処々の諸行の衆中、声を聞く者あらば、あらゆる貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)を悉(ことごと)く滅尽(めつじん)す」と説かれております。 〔現代語訳=(毒鼓の縁)をたとえて言えば、表面に毒薬を塗った大きな鼓を大勢の人が集まっている中で叩けば、鼓に塗った毒薬が飛び散り、その毒に触れた人々はみな死んでしまう。(中略)この譬と同じように、涅槃経を聞く者があれば、あらゆる欲望や怒りや愚かな心がすべて消滅する〕 

 大聖人様は御本仏のお立場から、この涅槃経の文を法華経に包摂され『法華初心成仏抄』で、

悪道にも堕ちず三界の生を離れたる二乗と云ふ者をば仏のの給はく、設ひ犬野干(やかん)の心をば発(お)こすとも、二乗の心をもつべからず、五逆十悪を作りて地獄には堕つとも、二乗の心をばもつべからずなんどと禁(いまし)められしぞかし。悪道におちざる程の利益は争(いか)でか有るべきなれども、其れをば仏の御本意とも思(おぼ)し食(め)さず、地獄には堕つるとも、仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起(た)つが如し。地獄には堕つれども、疾(と)く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり。何(いか)にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(御書1,315〜1,316㌻)

と仰せです。〔現代語訳=悪道に堕ちることのない二乗界の者は、生死を繰り返す迷いの世界である三界から離れることはできる。しかし、そのような二乗界の心をもつ者に対して仏は『たとえ犬や野干のような畜生界の心になっても、二乗界の心をもってはならない。父母を殺すなどの五逆罪や、人殺しや盗みなどの十悪を犯して地獄に堕ちるようなことがあっても、二乗界の心だけはもってはならない、と厳しく禁(いまし)められている。二乗界の者が地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道には堕ちない利益は仏の教える本当の利益ではない。(妙法を聞いて誹謗して)地獄に堕ちても、仏に成ることができる。妙法を聞かされたことにより、その妙法が種となりやがて仏に成る。したがって天台や妙楽もこの精神から、むりやりにでも妙法を説くべきである、と法華経の文を解釈している。たとえて言えば、大地につまずいて倒れた者が、立ち上がるときには、つまずいた大地に手をついて立ち上がるようなものである。同じように、地獄に堕ちることになっても、(妙法を聞いたことが縁となり)たちまちに地獄から浮かび上がり仏に成る。現在の人々も、妙法に背く罪で地獄に堕ちることは間違いない。ゆえに、どのような事情があろうとも、妙法を強く説き聞かせるべきである。信ずる人は仏に成り、誹謗する者は毒鼓の縁となって仏になる。どちらにせよ、仏になる種は妙法以外にはないからである〕

 引用が長くなりましたが、妙法の功徳の大きさと、末法では妙法でなければならないことを教えて下さる大切な御文です。仏教では「常住仏性」と言って、仏の性質は誰にでも平等に具わっているから、一人残らず仏の覚りを得ることが叶う、と教えております。ところが、過日の御講でも学びましたように、末法の私たちは仏の性質は備えていても、仏の種がありません。立派な畑はあっても種が植えられていない状態です。この畑に妙法の種を植える作業が「折伏」です。

顕謗法抄』には、

末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし。同じく悪道に堕つるならば、法華経を謗ぜさせて堕すならば、世間の罪をもて堕ちたるにはにるべからず。『聞法生謗堕於地獄勝於供養恒沙仏者(もんぽうしょうぼうだおじごくしょうおくようごうじゃぶっしゃ)』等の文のごとし。此の文の心は、法華経をぼう(謗)じて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙(ごうがしゃ)の仏を供養し、帰依渇仰(きえかつごう)する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり」(御書283㌻)

とあります。 〔現代語訳=末法の凡夫は悪いことをしないようでも悪道から逃れることは絶対にできない。同じように悪道に堕ちるのであるが、法華経を謗らせることで悪道に堕ちるのと、世間の罪で悪道に堕ちるのとは違う。妙楽大師が経文を解釈する中で「法を聞きて謗を生じ地獄に堕つるは、恆沙の仏を供養するに勝る者」と述べている通りである。このように、法華経を謗って地獄に堕ちても、釈尊や阿弥陀仏など多くの仏を供養し、帰依し信じ仰ぐ功徳に、百千万倍も勝っている、と説かれている〕

法華経をばうじて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し、帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり」は、大聖人様が御本仏としてのお姿を明らかにされる以前ですから、「釈迦仏・阿弥陀仏等」のお言葉です。その上で、釈迦仏等を供養し帰依し渇仰する功徳よりも妙法を耳にした功徳が大きい、と述べられ、妙法の偉大さ、妙法の功徳の尊さを教えて下さり、妙法を持つ私たちの精進を励まして下さるのです。

法華取要抄』では、

我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり」(御書736㌻)と仰せ下さっておりますので、順縁である私たちの功徳は計り知れません。

 否定的な心から妙法を聞きたくない者でも、ひとたび妙法を耳にすれば、煩悩の根本である貪・瞋・癡の三種類の悪しき心の用きは、仏と同じ慈しみの心に変わります。妙法に素直に随う人は勿論、反対する人であっても功徳を受けられる私たちの妙法の信仰です。

 法華経の教えから漏れた人々を拾い上げる涅槃経で「毒鼓の縁」が説かれている深い意義を思い、順縁の今を大切にして、逆縁の人々に仏縁を結ばせる折伏教化に努めてまいりましょう。

(朔日講〔聖寿803年5月1日〕にて)