朔日講拝読御書〔聖寿803年6月1日〕
『富木殿御返事』 弘安4年11月29日 60歳 御書1,578㌻ 7〜9行目
尼ごぜんの御所労の御事、我が身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり。此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事、灯に油をそへ、木の根に土をかさぬるがごとし。願はくは日月天其の命にかわり給へと申し候なり。
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<大聖人様が祈って下さる>
〔現代語訳〕
尼御前のご病気のことをお聞きし、日蓮は我がことのように思っております。尼御前が健康を取り戻すように尽力せよと、昼夜を問わず諸天に申しております。「この尼御前の供養を譬えれば、火が消えないように注ぎ足す油や、木が枯れないように根にかける土のようなもので、法華経の行者である日蓮を養うものです。願わくば、日天子や月天子よ、尼御前の命に成り代わり尼御前の病を平癒なさしめ給へ」と祈念しております。
当抄は弘安4年n月29日に御認めになられたもので、身延山中の大聖人様に、富木常忍が「鸞目一結」の御供養を申し上げるとともに、お手紙を書きました。その御返事です。
富木常忍は現在の千葉県市川市にすんでおりました。平安末期から中世にかけて下総や武蔵で勢力を誇った千葉氏の家臣です。千葉氏は源頼朝に従い軍功を挙げて、下総守護に任ぜられた、鎌倉幕府の有力な御家人です。富木常忍はその千葉氏の中にあって、当主を補佐する重要な役職についていたことが残された古文書などから推測されております。富木常忍は建長5年には入信をしていたと伝えられ、四条金吾等と共に大聖人様を外護申し上げる中心的な信徒の一人です。
日蓮大聖人様が『観心本尊抄』を富木常忍に託されたのは、大切な御書を未来に伝えるために最もふさわしいと判断されたからです。そのお眼鏡に適い『観心本尊抄』だけではなくその他の御書についても疎かにすることなく今日まで護り伝える役目をはたしました。
惜しむらくは、末法の御本仏の御教えに今ひとつ届かなかったことです。それほどに大聖人様の教えが「難信難解」である、ということです。
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〔日顕上人の御講義〕
総本山第67世日顕上人が、富木常忍が与えられた『四菩薩造立抄』について御講義される中で、次のように仰せになっておりますので紹介いたします。
①【そこで富木さんが、釈尊の脇へ上行等の四菩薩の像を造ったらどうでしょうという質問をしたのです。それに対して「地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん、先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るベし」(御書1,369㌻)
という御返事を『四菩薩造立抄』においてなされております。つまり、実際に末法に四菩薩が出現するから、まずまずその時に至るまで待って四菩薩を建立したらよい。と言われる真意は、本尊は四菩薩に任せよということです。すなわち、当時の四菩薩造立を禁ぜられているのです。したがってこれは、一往『四菩薩造立抄』と後人が題名をつけておりますけれども、あれは本当は「四菩薩不造立抄」なのです。真意は造立してはいけないということをおっしやっているのです】
(昭和58年2月24日華王寺新築落慶法要)
②【『四菩薩造立抄』という御抄に明らかであります。この題名も後人がつけたものですけれども、これは富木さんが『観心本尊抄』を拝して、四菩薩の像を彫刻し、造立するものだと考えて、その時期を大聖人様にお尋ねになったことに対するお返事のお手紙であります。(中略)なんとお書きになっておるかといえば、
「地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん、先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るベし」(御書1,369㌻)
という御文が続いております。そこの所をよく読まなければいけません。
それは、富木さんが『観心本尊抄』を頂きましたが、ずっと読んでみると「此の仏像出現せしむ可きか」という所で引つ掛かってしまって「本門の仏像というのはどういう形だろう」と思ったわけです。そして結局、今言ったお釈迦様の像に上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という四菩薩の像を造って、それを本尊として安置することかと考え、それならそれで早くお造りしたいと思いますがどうでしょうかというような内容の手紙を身延にいらっしやった大聖人様に申し上げたわけです。それに対して大聖人様が「この四菩薩ということを『観心本尊抄』に私がどれほど苦心して書いたかが少しも解っていない。しょうがない人だ。仕方がないから……」ということで今のようにおっしやったのです。
ですから「其れ程に」と示され、そのうちに地涌の菩薩が出現されるだろうから、まずその時程に建立しましょうとおっしゃっております。しかしそうではない。大聖人様御自ら地涌・上行菩薩として御出現あそばされているのだけれども、富木さんにはそれが解らない。大聖人様のことを法華経を弘める偉いお坊さんだろうとは思っているけれども、せいぜいその程度のところで、釈尊から大事・大切な付嘱を受けて末法に出現され、末法万年の大導師として、上行菩薩の再誕として御出現あそばされた大聖人様であるということは解らなかったのです。だからその質問が来た。それに対して大聖人様は、解らない人はしょうがないということで、そのうちに出現なさるだろうからという意味でお書きになったのが『四菩薩造立抄』であります】
(昭和60年12月20日本蓮寺新築落慶入仏法要)
以上のように、富木常忍の仏法理解の程を、日顕上人が委しく御指南下さっております。
四条金吾もそうあったように、富木常忍も肝心な所がわからなかったのです。それが700年後には大きな違いとなって現れております。日蓮大聖人様を仏様と拝するか、釈尊を仏様とするかの違いです。
幸いなことに私たちは、富木常忍や四条金吾が信ずることの出来なかった、筋道の通った信仰を受持することが叶っております。過去世からの深く素敵な縁の賜であると思わずにはおられません。この縁を大切にしてまいりましょう。
大聖人様が富木尼の病気を我がことのように心配して下さり、平癒を御祈念下さるご慈悲が有り難いではありませんか。
◆
大聖人様がこれほどまでに富木尼のことを御祈念下さるのは、妙法を末法に弘める上で欠かすことのできない人材だったからです。「此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事、灯に油をそへ、木の根に土をかさぬるがごとし」や「富木尼の命に成り代わりなさい」と叱責とも取れる強いお言葉がそのことを示しております。またこの時の富木尼の病状が重篤であったことが想像されます。富木尼は、現在の富士宮市北山(駿河国重須・するがのくにおもす)で生まれ、伊予守橘定時(いよのかみたちばなさだとき)に嫁ぎました。しかし、定時が若くして亡くなったために、富木常忍と再婚したと伝えられています。
建治2年3月27日の『富木尼御前御書』に、
「ときどの(富木殿)の御物がたり候は、こ(此)のはわ(母)のなげきのなかに、りんずう(臨終)のよくをはせしと、尼がよくあたり、かんびやう(看病)せし事のうれしさ、いつのよ(世)にわするべしともをぼへずと、よろこばれ候なり」(御書955㌻)
とございます。
この御文から、常忍が大聖人様に、①母親が亡くなったこと。②母親の臨終の姿が良かったこと。③富木尼が母親のことを親身になって看病したこと。④常忍が富木尼に深く感謝している、と申し上げたことがわかります。
ただこのころの富木尼は、
「なによりもをぼつか(覚束)なき事は御所労なり。かまへてさもと三年、はじめのごとくに、きうじ(灸治)せさせ給へ。病なき人も無常まぬかれがたし。但しとしのはてにはあらず。法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病(ごうびょう)にては候はじ。設(たと)ひ業病なりとも、法華経の御カたのもし。阿闍世(あじゃせ)王は法華経を持ちて四十年の命をのべ、陳臣(ちんしん)は十五年の命をのべたり。尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心は月のまさるがごとく、しを(潮)のみつがごとし。いかでか病も失(う)せ、寿ものびざるべきと強盛(ごうじょう)にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ」(御書955㌻)
という状況にありました。
意訳をいたします。「しかし、なによりも心配なことは富木尼のご病気のことです。必ず治ると思い、3年の間は怠らずに治療に専念しなさい。病のある人だけではなく、元気な人も必ず死を迎えます。しかし富木尼はまだ若く、寿命が尽きているわけではありません。その上法華経を信仰しておりますので、非業の死、つまり思いもよらない最期を迎えるようなことはありません。また前世の因縁によって起る業病でもないでしょう。たとえ業病であっても、法華経の力は頼もしいものです。治癒しない病はありません。阿闍世王は法華経を受持したことで40年も寿命を延ばし、陳臣も寿命を15年延ばしました。尼御前も同じように法華経の行者です。尼御前の御信心は、闇夜を照らす月光のように明らかです。潮が満ちてくるときのように力強いものです。なんとしても病を乗り越え寿命を延ばすのだ、と強盛に思い、心身を労り愚痴を言わないようにいたしましょう」
※きゅうじ=御書には「灸治」と漢ルビがありますが、灸による治療を指すのではなく、病を治してもとの状態にする意味の「救治」が適当であると考えました。富木尼が賜った『可延定業御書』では「四条金吾という素晴らしい医師がいるので診察を受けなさい(趣意)」(御書761㌻)とあります。
『可延定業御書』は文永12年(1275年)2月7日の御書です。その中には、
「命と申す物は一身(いっしん)第一の珍宝なり。一日なりともこれをの(延)ぶるならば千万両の金にもすぎたり」
「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(御書761㌻)
等との仰せがございます。三千世界は三千大千世界の略で、すべての世界という意味です。地球上にある財だけでも想像を超えます。私たちの命の尊さを教えて下さるお言葉です。我が命も大切であり、他者の命も同じように大切であることを知れば、戦争など絶対にできません。仏法、就中大聖人様の仏法が、絶対平和主義であることを知る一文です。
さらに続きます。
「而も法華経にあわせ給ひぬ。一日もいきてをは(御座)せば功徳つ(積)もるべし。あらを(惜)しの命や、あらをしの命や」(御書761㌻)
意訳をしますと、「その上法華経に巡り会うことができておりますので、一日でも長生きすることでその分功徳が積もります。なんと愛(いと)おしい命でしようか。なんと愛おしい命でしょうか」
御本尊様を受持する私たちの命はさらに尊いものであることがお分かりになると思います。なぜならば、広宣流布を目指して自らと他者のために生きることは、仏の命を生きるのと同じことだからです。使命を自覚して、互いに健康には留意をしましょう。
暴飲暴食や不摂生が続けば、折角の命も短命に終わる確率が高くなります。規律正しい生活のリズムが暴飲暴食や不摂生を防ぐ一助になることは間違いありません。勤行や唱題は生活のリズムをつくる上でとても有用なことです。修行とはそのようなものです。修行には無量の功徳がある、と言われる所以です。互いに励まし誠め、励みましょう。
『可延定業御書』は、大切な命ですから、進んで治療を受けなさいと、富木尼を通して私たちを指導して下さる御書です。病の時には特に有り難いものです。
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また、富木常忍はとても奥様思いだったことが次の御書からもわかります。
『富城入道殿御返事』 弘安2年11月25日 58歳
「不断(ふだん)法華経。来年三月の料の分、銭三貫文・米二斗送り給(た)び候ひ了んぬ。
十一月廿五日 日蓮花押
富城入道殿御返事
尼御前の御寿命長遠(じょうおん)の由天に申して候ぞ。其の故御物語り候へ」 (御書1,428㌻)
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『富城入道殿御返事』 弘安3年4月10日 59歳
「驚目(がもく)一結(ひとゆ)ひ給(た)び候ひ了(おわ)んぬ。御志は法華経に挙げ申し候ひ了んぬ。定めて十羅刹(じゆうらせつ)御身(おんみ)を守護すること疑ひ無く候はんか。
さては尼御前(あまごぜん)の御事をぼつかなく候由、申し伝へさせ給ひ候へ。
恐々謹言。
卯月(うづき)十日 日蓮花押
富城入道殿御返事」 (御書1,465㌻)
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これらの御文から、妻のことを心配して常に大聖人様に御報告している夫の姿が彷彿とします。
また次の『富木尼御前御書』では、建治2年3月27日 55歳
「やのはしる事は弓のちから、くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり。いまときどののこれへ御わたりある事、尼ごぜんの御力なり」 (御書955㌻)
と仰せです。この御文から、富木尼が夫の常忍を支えていたことが知れます。
同時に、富木尼の信心がよく現れているとも思います。
体調が思わしくない富木尼は大聖人様にお目にかかりたいのですが行くことが出来ません。そこで常忍に対して、私の代わりに大聖人様のところに行って下さい、とお尻を叩いている様子が目に浮かぶような御文です。大聖人様への御信心は、常忍よりも富木尼の方が純粋でー筋だったようで、後に日興上人の教えに従うことができた要因になったと思います。皆さまは、どのように感じられますか。
ジェンダー平等が言われる昨今です。ですが、いつの世にあっても男性諸氏より女性諸氏の方が信仰に篤い、という方程式は不変のように思えてなりません。勿論例外は沢山ございますが、御在世の女性信徒の強信さには学ぶことばかりです。
佛乘寺男性信徒の皆さま、奮起しましよう。女性信徒の皆さま、これからも水の流れるように、励んでまいりましょう。
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〔富木尼の子どもたち〕
富木尼には、先夫定時との間に生まれた日頂(にっちょう)師と、富木常忍との間に生まれた日澄師がおります。日頂師は大聖人様のお弟子になり、後には六老僧(ろくろうそう)の一人に任ぜられております。また、日澄師は六老僧の一人、日向の弟子となりました。日興上人が身延を離山された後には、日向にしたがって身延に住んでおりました。ところが、日向の教えを受けた地頭が、釈尊の仏像を造立するなどの謗法を犯したことで、師の日向が大聖人様の教えに背いていることに気づき、日興上人のお弟子になりました。
弟の日澄師が日興上人に帰伏したことで、兄の日頂師も富木常忍と義別し、日興上人に帰伏しました。
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〔日頂師と日澄の帰伏〕
日頂師が帰伏したことについて、身延派では「富木常忍が大聖人様の三回忌を奉修したときに、折伏のために法要に遅れた日頂師を勘当した」と言います。この話から、信仰に厳しい富木常忍、大聖人様を大切にする富木常忍へのイメ—ジが作られているのではないかと思います。
たしかに大聖人様への御報恩は大切なことです。しかし、折伏はもっと大切なことではないでしょうか。かりにこの話が真実であれば、大聖人様は「私の三回忌法要よりも、悩める衆生を成仏に導く折伏が優先事項です」とおおせになり、折伏をしないで何のための信仰か、と反対にお叱りを受けるのではないでしょうか。
日頂師は、先に挙げました日顕上人の御講義にもございますように、義父の富木常忍が大聖人様を末法の仏様である、ということを信じていないことに気づいたのです。弟の日澄師の導きもあったのかも知れません。したがって、義父の富木常忍から勘当されたのではなく、信仰上から諫めたけれども、理解することがなかったので日頂師の側から義別した、というのが真相であると私は思います。
さらに二人の子供たちに導かれた富木尼も生まれ故郷の富士重須に居を移し、最後を迎えたと伝えられております。
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〔まとめ〕
富木尼が大聖人様から祈って戴くことができたのは、正しい信仰を貫く姿勢があったからだと思います。末法に妙法を弘める心が強かったからだと思います。広布のために大切な人材である、と大聖人様が思って下さったから、
「我が身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり」
「願はくは日月天其の命にかわり給へと申し候なり」
と御祈念して下さったのです。
私たちも心配ありません。佛乘寺檀信徒の皆さまは、妙法広布に懸命に励んでおられます。広布に必要な人材ばかりです。大聖人様が見守って下さり、何かあるときには御祈念をして下さいます。妙法の大船に乗ったつもりで、勇気一杯に堂々と進んでまいりましょう。
梅雨の季節です。蒸し暑い毎日が続きます。秋の爽やかな風を恋しく思いながら、3ヶ月を過ごすのもまた修行だと思い、御題目を唱えましょう。御題目を唱えていても、今日は雨だから折伏に出かけるのは止めよう、と思う心もあります。いや、雨だからこそ出かける、という心もあります。どちらも間違いではありません。どちらも正解です。折伏の信仰であることを忘れていない心が大切です。
不快指数を愉快指数に変える御題目を唱え、愉快指数を周りに弘める折伏をしてまいりましよう。
(朔日講〔聖寿803年6月1日〕にて)