永代経配付プリント(平成28年8月1日)
《ご参詣の皆さまへ》住職
8月の御経日にあたり皆様には暑い中、また遠い所を厭わず御参詣になり誠にご苦労様でした。御先祖や御両親をはじめとする亡き方の為に、尊い浄財を御本尊様にお供えするばかりか、塔婆を建立してお励みになった皆様の真心は、必ず亡き方々の所に届けられております。皆様の尊い贈り物は、亡き方々の来世を助けることになります。
一日の御経日に他行をしており、申し訳なく存じます。実は、アメリカ合衆国の首都・ワシントンにあります、妙宣寺というお寺の住職の入院式が、現地時間の7月31日に執り行われる関係で、宗務院海外部の役目上、留守をいたしております。御理解下さい。
8月もお盆がございますので『四条金御殿御書』を拝読して、お盆の意義を学ぶ一助となれば、と思い出発前にプリントを作りました。所化に代読させますので、一緒に目を通して下さるよう念願いたします。
『四条金吾殿御書』 文永8年7月12日 御書469頁
雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文、態と使者を以て盆料送り給び候。殊に御文の趣有り難くあはれに覚え候。
抑盂蘭盆と申すは、もと目連尊者の母青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生餓鬼道にをち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはなさず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年の座席にして法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ。
(意訳)
お盆の追善供養の御供養として、雪のように白く精米された白米、清らかな心が込められた白米を一斗、古酒のような油を一筒、御供養のお金を一貫文、わざわざ使者を立ててお送り下さったものを確かに拝受いたしました。ことに、貴殿からの手紙を拝見して、母上の来世を心配される親孝行なお心に触れ、日蓮は強く感激をするとともになき母上を思うお心を貴く存じます。
そもそもお盆の法要の始まりは、釈尊の十大弟子の一人であり、不思議な神通力を得た目連尊者が、餓鬼界に堕ちた母親の青提女を救ったことにあります。
青提女は生前に托鉢の修行で訪れた釈尊に、御供養をする食べ物があるにも拘わらず、「私のところにはさし上げるものがない」といって御供養をしませんでした。この物惜しみをした、「慳貪の罪」により五百回生まれ変わるほど長い長い間、食べ物や水をはじめ欲しいものが手に入らない、という餓鬼界の苦しみを受けておりました。そのことを知った目連尊者が、母親の苦しみを救うために、多くの僧侶に沢山の食べ物を御供養することで、青提女を餓鬼界の苦しみから救うことができました。お盆はここから始まりました。
ところが、目連尊者は母親を餓鬼界の苦しみから救うことはできましたが、成仏という最高の境界に導くことはできませんでした。なぜならば、目連尊者自身が仏ではなかったからです。やがて目連尊者は、霊鷲山の法華経を説法された法座に連なり、その席で未来に多摩羅跋栴檀香仏となることを約束されました。その瞬間に母の青提女も共に成仏をすることが叶ったのです。
【お盆の法要を通して】
○一つ目は、「欲張らないこと」です。
青提女はたった一杯のご飯を惜しんだことで五百回生まれ変わるほどの長い間、餓鬼界から出ることができなかったのです。餓鬼界とは物が欲しくて欲しくて仕方のない心の状態です。一時も満ち足りた心になることができない、そのような状況を想像してみてください。「お金で買えない物はない」という風潮に支配された私たちへの警鐘でもあります。十億円の貯金があっても十億一円を望むような心は餓鬼界にあるといえます。
ところが、参院選後の世論調査では、心のことよりお金の方が大切、との意見が多数を占めるようになったそうです。長寿の結果、減り続ける年金や、無謀な経済施策がこの後も続くことを考えると、お金が大切、と言いたくなります。子供に負担をかけたくない、という思いもあるでしょう。ただ、歎いてばかりでは唱題の意味がなくなります。御本尊様の智慧を我が智慧として、今生を全うすることで、来世を撰ぶことが可能となるのですから、歎の心を唱題に向かわせましょう。怒りの心を慈悲に変え、折伏のエネルギーにしようではありませんか。現世も善き所となり、来世も安穏です。
仏法では、「喜捨」を説きます。読んで字の如く「悦んで捨てる」という意味です。何を捨てるか、そこが大切なところです。そのことを御文で拝しますと、
「雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文、態と使者を以て盆料送り給び候」
とございます。今日から見ますと、お米は白くて当たり前ですね。しかし年配の方から、白いお米は宝物であり、年に何回も食べることができなかった、と伺ったことがあります。昭和になってもそうだったのですから、鎌倉の時代であればなおさらでしょう。そのようなことを思うと、御供養の「白米」の持つ意味が理解されます。しかも、「雪のように白さ」ですからおそらく、四条金吾さんご自身が丹精を込めて精米をされたのでしょう。お母様にお供えしたい、という一心が「雪のような白いお米」となったのです。ご孝養な真心が伝わってまいります。
また油も貴重なものでした。「古酒のごとき」と形容されておりますように、当時一般に使われていた、鰯や鯖などの魚類から取った「漁燈」ではなく、ゴマを搾って作られた油で、白米以上に貴重なものでした。さらに、「一貫文」のお金です。一貫文は、錢の中央の穴に紐を通し、千枚を一組としたものをいいます。現在の価値では十万円から十五万円位でしょうか。それらをさらに、「わざわざ」なのです。ついで、ではありません。お母様のお盆の供養のためだけに使いを立て、日蓮大聖人様に御供養をされる、そこに真心を尽くす姿を見るのです。
大切な物、貴重な物を仏様にお供えすることにより、執着の心を捨てる修行をすることを教えてくださるのです。亡き方を前にして、命は永遠ではないと悟り、蔵の宝は死後の頼みとはならない、「心の財こそ第一」と知ることにより、執着の心から解放されたことを喜ぶのです。ですから、御供養のことを「喜捨」というのです。
この御文から、大聖人様は四条金吾を通して、目連尊者の母が「物惜しみをして餓鬼界の苦しみに堕ちたのは、悪しき執着心である。それを未然に防ぐ上から喜捨の修行がある」と私たちに教えて下さっているのです。
○二つめは、「私たちの修行」という点です。
目連尊者が法華経の修行をして、法華経の修行による功徳で仏に成り、母親を成仏に導くことができた点を見逃してはなりません。
日蓮正宗は「常盆・常彼岸」の宗旨です。意は、いつもお彼岸やお盆の心持ちでご先祖の供養をする、ということと、いつも変わらずに修行に励む、という二点にあります。
365日欠かさずに朝夕の勤行をする宗旨がほかにありますか? 毎月毎月お寺にお参りして僧侶と一緒にお経を読んで修行をする宗旨がありますか? 本宗のように毎日朝夕御本尊様に手を合わせ、僧俗和合してお経を読む宗旨はほかにありません。これが修行であり、その修行に成仏の功徳が具わるのです。そして、私たちが成仏の喜びを感じることによって亡き方も喜びを共有することができるのです。御文では「此の時母も仏になり給ふ」と仰せ下さるところがそこにあたります。
『盂蘭盆御書』では、
自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや (御書・1,375頁)
というお言葉で示されます。私たち一人ひとりが、「南無妙法蓮華経」と唱え、大聖人様の教えを未だ縁のない方々に勧める折伏行をすることによって、私たち自身が仏に成ることができます。その時に恩ある父母を救うことが叶うのです。このように功徳が大きい故に修行も厳しいのです。
ですから、日蓮正宗では、「お坊さんにお経を読んでもらってそれで良し」とはしないのです。願い出たご信徒も共に法華経を読み、御本尊様にお題目を唱え、一人ひとりが功徳を受け、その功徳が亡き方に届くことにより本当の成仏が実現する、と教え実践するのです。750年の間変わらない成仏への方程式です。
日蓮大聖人様は「日蓮の修行は自行化他である」と仰せです。亡き方ばかりではなく、生きている周囲の方々にもお盆の意義を伝え、追善供養を勧め、共にお盆の修行に励むように勧めることが本当の修行です。
梅雨も明け暑い毎日が続きます。身体を大切になさって、日蓮大聖人様の仰せのままに修行に励む日蓮正宗の宗旨に、誇りと自信を持って進んでまいりましょう。
来月の御経日の頃には、少しは涼しくなっていると思います。実りの秋を心に、お元気で夏をお過ごし下さい。
(永代経[平成28年8月1日]にて)