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「四条金吾殿御返事」

☆副教材〔四条金吾プロフィール・これは、聖寿802年御報恩御講に配付したものです〕

〇誕生=寛喜元年(1229年) 大聖人様より8歳年下にあたる。

〇寂年=永仁四年(1296年)4月25日 享年68。

〇正式な呼び名=四条中務三郎左衛門尉頼基(しじょう なかつかさ さぶろうさえもんのじょう よりもと)

大聖人様が「四条金吾」と呼ばれるのは、頼基の官位が左衛門尉であったことに由来している。左衛門尉は宮城の門を警備する役人で、中国唐の時代にはその役名を「金吾」と称していたことよる。三郎は四条中務の三男、の意と考えられる。

〇家族

=四条中務頼員(しじようなかつかさよりかず)

=法名「妙法」 『四条金吾殿御返事』には「今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なり、いかでか餓鬼道におち給ふべきや。定んで釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん。是こそ四条金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給ふらめ」(御書・470頁)とある。伝えられるところによれば、妙法聖霊は池上氏の娘とある。この伝が正しければ、池上兄弟の父親である池上康光の姉か妹にあたり、四条金吾と池上兄弟は従兄弟の関係になる。

=日眼女(にちげんにょ) 『四条金吾女房御書』に「懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。(乃至)夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生まれん。目出度く覚へ候ぞ」(御書・464頁)とあることから、夫婦揃って大聖人様の信仰に励んでいたことが分かる。ただ、この時に生まれた子供のことや、他の子供がいたかどうかは詳らかではない。

〇入信=御書の年表には、康元元年(1256年)の入信とある。進士善春・工藤吉隆・池上宗仲・荏原義宗等もこの頃とされている。立宗宣言から三年後、四条金吾二十八歳の時である。

〇人となり=『崇峻天皇御書』には、「殿は一定腹あしき相かをに顕はれたり」(御書・1,171頁)、また『四条金吾殿御返事』には、「御辺は腹あしき人なれば火の燃ゆるがごとし」(同・1,179頁)と記されている。この「腹あしき」とは、怒りっぽい性格や短気の意である。しかし、短気な性格にはボジティブな側面もある。情熱や行動力、感受性、目標志向、判断力などの素質を高める要因と捉えることができる。そのため、適切なコントロールや自己管理を心がけることで、素晴らしい人生を築くことが可能となる。大聖人は四条金吾に対し、「受くるはやすく、持つはかたし。さる間、成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」(同・755頁)と仰せられてる。この御言葉は、信心を貫くことの重要性を説くものであり、困難に直面しても不断の努力によって精神のバランスを保つことで、成仏の境界を築けるとご指導されていると拝する。短気を信心で克服し、より良い境界を開いた例がこの時の四条金吾である。また、『四条金吾殿御返事』で「日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用ゐまじく候なり」(同・1,392頁)とのお言葉を賜っているように、勝れた医師であった。

〇証言者・四条金吾

文永8年9月12日の竜の口法難の時に、「これに告ぐべき人あり」(『種々御振舞御書』御書・1,059頁)と仰せになり、大聖人様は四条金吾を呼び出され、竜の口までの供を命ぜられた。お供をした四条金吾は、江の島の方角から光り輝く飛行物体が突然出現し、その飛行物体が発する強い光に首切り役人の目が眩み、大刀を取り落として逃げ去り、大聖人様の首を切ることが出来なかった不思議な出来事を体験することになった。この時四条金吾は、大聖人様が日頃から「法華経の行者には諸天の守護が必ずある」と仰せになっていることが事実として現れたことを理解したのである。このようなことから四条金吾は、竜の口での不思議な出来事は、大聖人様が末法の法華経の行者であることを証明することであり、そのことを後の世に伝える役目を仰せつけられた、と拝することができる。竜の口法難の証言者としての四条金吾である。

〇晚年=一説によると、身延に近い山梨県内船に持仏堂を建てて余生を送った、と。日興上人が地頭・波木井実長の謗法を因として身延を離山された後、謗法の地となった身延に近い所で余生を送ったのであれば、残念なことである。

(副教材:御報恩御講[聖寿804年1月]にて)