『四条金吾女房御返事』 文永12年1月27日 54歳 御書757㌻
三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是なり。年はわかうなり、福はかさなり候べし
〔ピンチはチャンス〕
三十三歳の厄年(やくどし)でも、南無妙法蓮華経とお題目(だいもく)を唱(とな)え折伏(しゃくぶく)をすれば、三十三の功徳(くどく)に変わります。七つの災難(さいなん)は直(ただ)ちに消滅(しょうめつ)し、七つの幸(さいわ)い恵まれる、との教えを信じることで、身も心も若返(わかがえ)り、福(ふく)は益々(ますます)重(かさ)なります。
〔語句の解説〕
〔大聖人様の教えは命が第一〕
○三十三の厄=『仏説灌頂菩薩経(ぶっせつかんちょうぼさつきょう)』という経文には、厄年を、7歳、13歳、33歳、37歳、42歳、49歳、52歳、61歳、73歳、85歳、97歳、105歳としております。この経典は金剛頂経の解説書的なもので、西暦650年ころに中国で成立したようです。内容はともかくとして、1300年前に97歳とか105歳という年齢が記されていることに一種の驚きを覚えます。不老長寿は人類の欲望の中でも根元的なものの一つであることがこの経文からわかるような気がいたします。令和の私たちが健康で長生きを願うのは決して欲張りではありません。
大聖人様は富木常忍の夫人に与えられた『可延定業御書(かえんじょうごうごしょ)』で、「命が一番の宝です。一日でも命を延べることができるのであれば、千万両の金(こがね)を得るよりも素晴らしいことです。一日生きることは、世界中の宝物を集めるよりも素敵なことなのです。その上法華経の御信心をされているのですから、一日でも長生きすれば、それだけ功徳を積むことになります」(趣意)と述べられております。御本尊様を受持する私たちの命の尊さを教えて下さる御文です。また、尊い命を無駄にすることのないように、との励ましのお言葉です。
〔現代の厄年観〕
今日、一般に厄年といわれておりますのは、女性では19歳、33歳、37歳。男性で25歳、42歳、61歳です。その中でも、女性の33歳と男42歳は本厄といわれております。この年齢に差し掛かるころは、身体の変わり目であったり、仕事などの面では重要なポストに就く年齢と重なるなどの変化の時と言えます。
750年前の33歳と、長寿社会と言われる現代の33歳とではその意味合いには違いがあるようにも思います。しかし、節目にあたってご信心第一に乗り越えてまいりましょう、お題目根本であれば、必ず前に進めます、と励まして下さっていることは変わりません。大聖人様が常に見守って下さっていることを忘れないようにいたしましょう。
〔七難即滅七福即生〕
○七難即滅七福即生=仁王経巻下・受持品第七には「其の国土の中に七つの難とすべき有り、一切の国王は、是の難の為の故に般若波羅蜜を講読せば、七難即ち滅し、七福即ち生じ万姓安楽にして帝王歓喜せん」とあります。この経文は爾前経ですが、『立正安国論』をはじめ諸御書でたびたび引用されております。
〔大聖人様が爾前経を引用される理由〕
大聖人様が法華経以前に説かれた、未顕真実(みけんしんじつ・未だ真実を顕さず・まだ真実を説き明かしていない教えの意)の経文を引用されるのかと、不思議に思われる方もいらっしゃるかも知れませんので、次に日寛上人の教えを紹介します。
これは『立正安国論』を解説した『安国論愚記』(文段集17頁)の一節です。「未顕真実」とされる爾前経(法華経以前の経典)を引用する理由について、次の四つが挙げられています。
そこには「一には、爾前はこれ法華の為の網目なる故に。二には、文は爾前に在るも義は法華に在るが故に。三には、爾前の劣を以て法華の勝を況する故に。四には、爾前の文を借りて法華の義を顕すが故に」とあります。
一では法華経と爾前経を網に譬えられています。網の大綱(たいこう・根本的な事柄。おおもと)が法華経。細かい網目が爾前経です。仏教の肝心である成仏の教えは法華経に限られるものの、それ以外のことは爾前経にも説かれている、ということです。
二は、成仏という文言は爾前経にもあるが、成仏の真実の義は法華経のみに示される、ということです。
三にあります「況」は、比較することです。法華経の教えに爾前経が及ばないことを比較して理解させるために引用されている、ということです。
四は、爾前経の文を引用しても、その意義は法華経によって解釈されるべきものであり、爾前経そのものの意義を用いるものではない。意義はあくまでも法華経にある、ということです。
日蓮大聖人様は、仏教は法華経が根本であることを大前提とした上で、爾前経や仏教以外の教えである外典を引用されているのです。
〔七難の具体例〕
七難について、仁王経では、①日月が度を失う難(太陽や月が光を失う現象)②星宿が度を失う難(星々のことを星宿といいます。その星々が光を失う)③災火の難(火による災難、ロサンゼルスの火災があてはまります)④雨水の難(水による災難、近年世界中で起こっています)⑤悪風の難(風による災難、台風やハリケーンなどがあります)⑥亢陽の難(こうようのなん・干ばつです)⑦悪賊の難(悪事を働く者。国家に背く者などが起こす難です。国と国の戦争や内乱もここにあてはまります)と説かれています。
この七難に対する言葉が七福で、七難を消滅させるはたらきのことです。
①から⑥までが自然界でのできごとになります。『立正安国論』では「太陽や月の運行が狂い、季節の夏と冬が反対なる。太陽が二つ三つ四つ五つと並んで出たり、赤や黒だったり、日蝕になったり、二重、三重、四重、五重と重なって出たりするのが一の難。二十八の星座の運行が狂い、金星などの星々が姿を変えて現れるのが二の難」(趣意・御書236㌻)と述べられています。日蝕や月蝕を除いては、私たち人界の衆生の目には映らないかもしれません。ただ仏様の御眼にはハッキリと見えているのです。
➆の「悪賊の難」は人間の悪しき心に起因することです。私たちの心にある煩悩が、様々な業を呼び起こし、呼び起こされた悪い業より苦しみを受けるようになります。地震を予知し、地震が起こらないように未然に防ぐ技術が開発されたとしても、私たち人間の心にある煩悩をなくすことは不可能です。
〔煩悩即菩提の意義〕
医学や科学で煩悩をなくすことはできません。「灰身滅智」と言って、煩悩を消したり無くそうとするのは禅宗の教えです。煩悩を否定するのではなく、煩悩を良い方向に向けることができるのが法華経です。「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい・煩悩がそのまま覚りとなる原理)」の功徳を受けられるのが南無妙法蓮華経の信仰です。
頻発する集中豪雨や温暖化現象、戦争や経済危機に怯えるのも七難といえるのではないでしょうか。これらの諸難は、持続可能な開発目標(SDGs)や技術革新、国際協力、教育、科学研究の取り組み等では克服できません。
何故ならば、今日の自然環境の諸問題の多くは、キリスト教の自然観を根底にした「人間中心主義」に起因していると思えるからです。
〔キリスト教で説く人間と動植物や自然環境の関係〕
聖書の「創世記」には、
「増え、かつ増して地に満ちよ。また、地を従えよ。海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物を支配せよ」(関根正雄訳 「創世記」岩波文庫版 第1章第28節)
と書かれています。キリスト教では、創造者である神が人間に対し、地球上のすべての動植物を従え支配せよ、と命じているのです。
因みに近年は、「従えよ・支配せよ」を、自然を守り、管理する責任を果たすべきだという解釈が主流になりつつあるとし、現代のキリスト教徒や神学者は、地球環境問題に真剣に向き合い、信仰の枠を超えて持続可能な社会を築く努力をしている、と苦しい言い訳をしています。
しかし、自然を守り管理する責任を人間に与えている、と言い換えても、人間中心主義の考え方は変わりません。管理は支配です。隷属させることです。このようなキリスト教が社会の規範となっている西洋文明の限界が露呈しているのが今日の世界情勢ではありませんか。
西欧から始まった工業の近代化によって人類が受けた利益は大きいかも知れませんが、自然環境や多くの動植物への影響を考えると、それ以上に大切なものを失ったのではないかと思えます。富国強兵を掲げた明治政府も西欧に追随したことは周知のことであり、我が国も例外ではありません。
そもそも、科学技術の発展は人間の煩悩から始まりました。例えば、生肉を食べていた私たちの先祖は、あるとき自然発生した山火事で偶然焼かれた動物の肉や植物の果実の味を知りました。そこで人類は火を自然発生に頼るのではなく、石を打ち合わせたり、木をこすり合わせて摩擦熱で火を起こしたりする方法を編み出しました。美味しい食事を願う煩悩から、火を得るために知恵を巡らせ、やがて自在に火を扱うことができるようになったのです。21世紀の今、核の恐怖にさらされるようになったのも、元をただせば、美味しく焼けた肉や魚を食べたい、と言うささやかな煩悩でした。このささやかな煩悩が、人類を破滅に導く核に成長し、地球環境を激変させています。
〔依正不二の原理〕
それでは、七難を七福にするにはどのようにすればよいのでしょうか。それにつきまして大聖人様は、人界の衆生と自然環境の関係を「依正不二」の原理として教えて下さっています。
この「依正不二」は、天台大師が法華経の経題を明らかにした『法華玄義(ほっけげんぎ)』で、妙法蓮華経の妙の一字に十種類のすぐれた意義があること述べた十妙を、さらに天台大師のお弟子の妙楽大師が、『法華玄義釈籖(しゃくせん)』で十妙を解釈して「十不二門(じっぷにもん・じゅうふにもん)」で明かされたものです。不二(ふに)は二ならずと読み、二つに見えるが実は二つではない、ということです。「二而不二・而二不二(ににふに・二而して二ならず)」も同じ意です。
つまり、依正不二は依報と正報の二報が不二であることです。換言すれば、報と正報は一つ、別々に存在するものではない、という教えなのです。
「報(ほう)」は、「むくい」という意味です。過去の善悪の行いが原因となり、目に見える結果となって表れた身体のことを「正報(しょうほう)」と言います。私たち人界の衆生の身体が正報にあたります。「正」は過去の行いが間違いなく表れている、という意味での「正」です。過去に正しいことをした結果、よい報いを受けている、という意味ではありませんので注意が必要です。
一方、身体が頼りとするすべての環境を「依報(えほう)」と言います。「依」は「より所・頼みとする所」を意味します。身土不二(しんどふに)とも言います。
このように私たちの過去の行いは、身体ばかりか住む場所にも影響を与えます。現在の行いを正すことで、住む所もよくなる、環境を変えられると説く大切な「依報不二」の教えです。
日蓮大聖人様は『瑞相御書』で、
「夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし」
(御書918㌻)
と説かれています。十方は東・西・南・北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維と上下です。つまり私たちを取り囲んでいる環境を依報とされています。衆生は私たち一人ひとりのことです。その上で、依報は影、正報は体と仰せになり、身と影が別々ではないのと同じように、私たちと私たちを取り巻く環境も別々ではない、と「依正不二」の原理を示されています。
正報である私たち人類と依報である環境世界とが密接な関係にあることを認識することがなによりも大切です。その上で、どっちが主でありどっちが従であるというキリスト教的な考えから脱し、互いに助け合い補い合う関係を築くことが、七難を七福に変える唯一の方法です。
〔煩悩即菩提・苦しみは楽しみに〕
108種類もあると言われる煩悩や、貪(むさぼ)る命、瞋(いかり)の命、癡(おろか)な命である三毒を、よい方向に変えられるのが「煩悩即菩提」の教えです。煩悩は決して悪い面ばかりではない、ということを知っておいて下さい。
世界中から御開扉を受けるために総本山に登山ができるのは、飛行機や電車やバスのお陰です。夜に本を読めるのも、電球の発明があったからです。これらの元をただせば、欲望であり煩悩です。
神に命じられたままに、支配し隷属させ管理するのは煩悩以前の問題になるようにも思えます。自然と調和して、より良い人間世界にするにはどのような方法があるだろうか、と考えることが良い煩悩であり正しい欲望です。
〔33の厄は33の幸いに〕
拝読の御文から、33歳の厄年にあたり、御本尊様を根本にした信仰であれば、譬え厄に遭遇することがあっても乗り越えることができる、乗り越えるだけではなく、さらに大きな幸福に恵まれる、と励まして下さっていることがおわかりいただけたと思います。
私たちは、厄年の時だけではなく、日々を過ごすなかで多くの厄や難に遭遇しております。
四苦八苦や七転八倒の人生ですが、そこから逃げるわけにはまいりません。拝読いたしました御文の「七難即滅七福即生」のご文に続いて「年はわかうなり、福はかさなり候べし」と仰せ下さっております。厄年と言われるピンチも、強く祈ればチャンスに変わります。ピンチは幸せへの入り口です。
そのためには、拝読の少し前の箇所で、
「但し信心のよは(弱)きものをば、法華経を持つ女人なれどもす(捨)つるとみへて候」
との仰せを誡めとして、精進を重ねてまいりましょう。
〔冬は必ず春となる〕
厳しい寒さが続いております。季節だけではなく、心も冬の方がいらっしゃるかも知れません。季節の冬も、心の冬もどちらも永遠に続くものではありません。春が来るのを思い浮かべれば、厳しい寒さも克服できます。お題目が心を温め下さいます。励みましょう。
(朔日講[聖寿804年2月1日]にて)