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「曾谷殿御返事」

折伏座談会拝読御書 (13年の折伏座談会でのものに手を加えました)

『曾谷殿御返事』 建治2年8月2日 御書1,039〜40㌻

 涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり」云云。

 此の文の中に見壊法者の見と、置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく「諸の悪人と俱に地獄に堕ちん」云云。謗法を責めずして成仏を願はヾ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば漆杯必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し。「毒気深入、失本心故」とは是なり。

〔通解〕

【仏法を破壊する者を責めることの重要性】

 涅槃経には「もし行いの善い出家の僧侶がいて、仏法を破壊する者を見ながら、それを置いて呵責したり、駈遣したり、挙処しなかったならば、正に知るべきです。この人は仏法の中の怨です。反対に、よく駈遣し、呵責し、挙処したならば、この人は仏の弟子であり、真実の声聞です」とあります。

【謗法を許すことで招く重大な結果】

 この文の中に、「法を破壊する者を見る」の「見る」と、「置いて呵責せず」の「置いて」の意義をよくよく心腑に染めるべきです。法華経の敵を見ながら、責めないでそのままにしておいたならば、師の僧侶と、檀那と共に無間地獄に堕ちることは疑いありません。

 南岳大師は法華経安楽行儀の中で「(謗法を責めないならば善比丘であっても)悪人と倶に地獄に堕ちるであろう」と述べています。

【謗法を責めることと成仏の関係】

 これらの文のように、謗法を責めないで成仏を遂げようと願うことは、燃えさかる火の中から水を汲もうとするようなものであり、水の中から火を取り出そうとするようなもので、とうてい叶うはずがありません。実にはかないことです。いかに法華経を信じようとも、謗法があったならば必ず地獄に堕ちます。多くの漆があったとしても、その中に蟹の足を一本入れたとたんに漆の効き目がなくなるのと同じです。毒気が深く入り込み、本心を失ってしまい、謗法を謗法と思えないような状態にあるというのはこのことです。

〔拝読のポイント〕

【折伏は何故するのか】

 なにゆえに折伏をしなければならないか、ということを明示された御文です。折伏はなぜするのでしょうか。自分のためですか。愛する家族のためですか。親しい友人のためですか。

 私たちが受持する南無妙法蓮華経の御本尊様は、自行化他に亘る教え、とのお言葉から考えますと、折伏は自身のためでもあり他人のためでもある、と言うことです。広宣流布をした暁には折伏は必要ありません。しかし、世界中謗法だらけですから、成仏するためには折伏をしなくてはならないのです。

 ゆえに、大聖人様はこの御文のように仰せになられるのです。したがって、この御指南のように、謗法を責めること、つまり折伏を行ずることにより、必ず成仏の境涯をつかむことができるのです。

【師弟不二の信心と折伏】

 ここで大聖人様は「師檀ともに」と御指南になられます。ここは「僧俗共に」と読みかえることもできます。そういたしますとこの意味は、師弟不二の信心ということです。「」であられる日蓮大聖人様が、「折伏をすべし」と仰せになられ、執権北条時宗を始め当時の権力者に敢然と折伏を行われ、死罪流罪という大難にあわれました。しかし、このことは、大聖人様が法華経の行者であるという証明となり、日蓮大聖人様は末法の御本仏であられるということが明らかになりました。この事実をふまえて御文を拝するならば、「」が行じたように、弟子檀那も、師と共に実践することで、弟子も成仏が叶うのです。

 この御書を与えられたのは曽谷教信です。大聖人様は「私の成仏は檀那である曽谷教信さんが折伏することにより叶うのです」と仰せになられていると拝することもできます。また「曽谷教信さん、貴男の成仏は日蓮の折伏によりかなうのです」ということにもなります。大聖人様の教えを正しく護り伝える富士大石寺の信仰は、この「師弟不二」の信仰です。

創価学会を破門以後、私たちの師匠であられる日顕上人猊下は、池田教徒たちから誹謗惡口の難を受けられました。しかし、退くことなく折伏の指揮をお執り下さいました。日如上人猊下も、陣頭に立って折伏の指揮をおとりです。私どもが続くことで広宣流布が達成されます。

大聖人様から選ばれて広布の陣列に立つ精鋭であると自覚すべき時です。一方の池田教徒は、第六天の魔王に魅入られた哀れな兵士です。勝敗は歴然としております。日蓮正宗から退転し、罰の現証を受けているのが創価学会です。

【謗法を責めることで成仏が叶う】

 つぎに、「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入・失本心故』とは是なり」と仰せになられ、謗法を犯す恐ろしさを教えて下さいます。漆は塗り物にはなくてはならないもので、その成分には重要な役目があります。ところが、瓶に千杯もある漆の中に、たった一本の蟹の足を入れるだけで成分が化学変化をおこし、漆の特性を失い役に立たなくなります。信心を「うるし」に、謗法を「蟹の足」に譬え、このように仰せになるのです。勤行をし、御題目を唱えていたとしても、謗法の者を見て折伏をしなかったならばせっかくの功徳も消え果ててしまうのです。

 反対に、謗法を誠め、大聖人様が仰せのままに、大御本尊様の修行をするならば、必ず仏の境涯を我が身に顕すことができるのです。

 折伏をする人は必ず御利益を受けることができます。御利益の中でもすぐにわかる御利益は、体中に元気がみなぎるという御利益です。今世の中は政治や経済や文化等の一切が不調です。元気がない状況であると言えます。このような時であるからこそ、体中に元気がみなぎる折伏をしなくてはなりません。社会に元気を与えるのが富士大石寺の大御本尊様を頂いた私ども法華講員の折伏です。

【高校球児の姿から折伏の精神を学ぶ】

 話は変わりますが、高校野球を見ていて感じたことです。運悪く、優勝候補の呼び声の高い都会の私立高校(新興宗教系)と対戦することになった田舎の公立高校の選手が「練習試合も申し込めないような格上の相手ですから、勝負を度外視し胸を借ります」と言って試合に臨みます。ロでは負けて元々と言いながら、選手全員が涙を流し、負けた無念さを表し、監督も相手が予想以上に上でした、と悔しさの中に選手をかばいます。最初から負けると決めないで、強い相手に向かって全力を出して戦った姿に感動があります。何とかして勝ちたいと思うのが人情です。だから緊張もします。投手はストライクが入らなくなり、野手は何でもないゴロを後ろに逸らすのでしょう。心の中に「勝ちたい」という思いがあるからです。そのために苦しい練習に耐えたのです。負けて「悔しい」と思った者だけが、未来の勝利を手にすることができます。こんなことを考えながら、甲子園をながめています。

【折伏の結果を求めることの大切さ】

 では、折伏の闘いはいかがでしょうか。よく聞く言葉に「結果は問題ではない、縁をさせることが大切だ」と。確かにその通りで、無理矢理の折伏では御本尊様を粗末にすることにつながります。「数を問題にはしない、大切なのは行動です」などと言う場合もあります。しかし、最初から、「縁をさせるだけ」という低い目標で折伏に臨む人はいません。御本尊様を「受持させるんだ」と強い決意が皆あります。あったにもかかわらず、色々な話をする間に、いつの間にか最初の決意が薄れ、ここまでやったのだから、と諦めてしまうことが多いのではありませんか。言い訳を先に考えての折伏では高校球児に笑われてしまいます。

【折伏による歓喜と信仰の実践】

 どうして勝てなかったのだろう。なぜうんと言わせられなかったのだろう、と言う悔しさ、反省がないといつまでたっても折伏のまねごとに終始するだけで、勝利の歓びを味わうことはできません。日頃の唱題は何のためですか。結果を得るための唱題です。「御本尊様あの人を救ってください」との強い一念が、結果を得る行動、実践につながります。

 御授戒を受け、御本尊様を受持した時の、新入信者の生命の変化を目の当たりにした瞬間に、「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜」との御指南が現実のものとして浮かび上がってまいります。折伏は、多くの方々にこの生命の歓びを実感させたい、との大聖人様の御慈悲ではないかと思ったりします。

【折伏による社会への貢献】

佛乘寺の皆さん、折伏で歓喜を我が身に、我が心に。そして、生き生きとした人生を自他共に築き、社会に元気を与えていける日蓮正宗富士大石寺の信仰を行じてまいりましょう。

【語句の意味】

〇涅槃経=釈理が入滅する直前に説かれた経文。拾経ともいわれる。法華経で全てを説き示されたが、なお落ち穂のごとき衆生を救済する上から説かれた一日一夜の経文。

〇「若し善比丘…」=涅槃経卷三の文。

〇善比丘=善き行いの比丘。比丘は男性の出家、女性は比丘尼という。創価学会にはしった僧侶はさしずめ悪比丘。

〇呵責=<呵>は大声でしかること。漢語としての「呵責」は、きびしく責める意味。呵はしかる。呵責でしかり責める意。非を責め厳しく追及する事。罪を犯した比丘に加える七種の罰。

〇駈遣=追い出す。追放する。比丘が種々の悪行をなしたとき、その地から追放した。

〇挙処=はっきりと誤りを指摘し糾明すること。

〇師檀=師と檀那。檀那は信者のこと。ここでは、師は大聖人様、檀那は曽谷教信を始めとする信者。現在の我ら法華講衆。

〇無間地獄=無間は梵語アヴィーチィ(avici)を漢訳したもの。絶え間ない苦しみを受けることからこのように名付けられる。八大地獄の中でも特に苦しい地獄。阿鼻地獄ともいう。正法を誹謗したものが堕ちる地獄。大聖人様は「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(『報恩抄』御書1,036㌻)とおおせになられる。

〇南岳大師=515年〜577年。中国南北朝時代の僧侶。字は慧思。南岳というところに住したことから南岳大師といわれる。天台大師の師匠。

〇「諸の悪人と倶に…」=南岳の著した法華経安楽行儀に説かれる文で、菩薩が悪事なす者を注意することなく、さらに増長させ、善を悩ますが、なお注意をしない。この菩薩は命が終わると共に無間地獄に堕ちる(趣意)と説かれる。

〇謗法=誹謗正法を略した語。正しい教えを毀ったり、誤った教えを説いて正法から離反させる行為や心の動き。

〇毒気深入・失本心故=毒気深く入り、本心を失えるが故にと読む。法華経如来寿量品第十六の文。毒気つまり謗法の毒が体内に深く入り、本心を失っている状態。

(折伏座談会にて)