『上野殿後家尼御返事』 文永2年1265年7月11日 御書338頁
故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑ひなし。さのみなげき給ふべからず。またなげき給ふべきが凡夫のことわりなり。ただし聖人の上にもこれあるなり。釈迦仏御入滅のとき、諸大弟子等のさとりのなげき、凡夫の振る舞いを示し給ふか。いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし。古徳のことばにも、心地を九識にもち、修行をば六識にせよとをしへ給ふ。ことわりにもや候らん。
《意訳》
亡くなられたご主人は、生前に日蓮の信仰をされておりましたので、凡夫の身を改めることなく仏になられました。したがいまして、嘆き悲しむことはありません。とはいえ、凡夫として死を悲しむのは自然なことです。聖人であってもおなじようなことがありました。たとえば釈尊が入滅されたとき、聖人である多くの弟子たちが嘆き悲しんだことが伝えられています。これは凡夫の心を示されたといえるでしょう。どうかこの後は、ご主人のことを思い、できる限り、心をこめて追善供養に励みましょう。古の高僧は、「私たちの本来の生命は仏そのものである、と深く心に思い定め、その上で仏道修行は凡夫の心で実践しなさい」と説いております。日蓮もその通りであると存じます。
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【南条家と日蓮大聖人】
この御文は、鎌倉幕府の御家人であり、現在の静岡県富士宮市上野の地頭職を務めていた南条兵衛七郎の妻へ与えられたものです。兵衛七郎は、鎌倉に滞在していた際に日蓮大聖人の折伏を受け、それまでの念仏信仰を捨てて入信しました。しかし、文永2年3月8日に亡くなりました。その時、妻である上野尼は五男の七郎五郎を身ごもっており、後に大石寺を建立寄進した次男時光は七歳、ほかにも幼い子どもたちが残されました。
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【南条家と鎌倉幕府の関係】
南条家の出身地は伊豆韮山(現在の静岡県伊豆の国市)であり、今も狩野川沿いには「南条」「中条」「北条」といった地名が残っています。このことからも、南条家が鎌倉幕府の執権北条家と深い関わりがあったことがうかがえます。また、南条家の名は源頼朝の時代から御家人として記録に残っており、頼朝の挙兵の際には北条氏らとともに尽力したと考えられます。その後、鎌倉幕府の成立に伴い、兵衛七郎は富士上野の地頭職を任され、「上野殿」と称されるようになりました。
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【上野尼への励ましと御文の教え】
この若くして夫を亡くした上野尼への励ましの御文から、次の三つの教えを学ぶことができます。
一、亡きご主人は即身成仏されているので、心配はいらないこと。
二、そうは言っても、亡きご主人のために追善供養を行うことが大切であること。
三、その追善供養こそが、私たち凡夫としての仏道修行であること。
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【変わらぬ信仰の大切さ】
日蓮大聖人が約七百六十年前に示されたこの教えは、令和の今も変わらず日蓮正宗の信仰として実践されています。本日拝読した御文からも、亡くなった方の来世の幸せを願う「追善供養」の意義を感じ取っていただけるのではないでしょうか。
しかし、信仰を変わらず守り続けることは、簡単なことではありません。時には「頑固だ」「偏屈だ」と言われることもあるでしょう。ですが、私たちにとって大切なのは、まっすぐに信仰を貫くことです。それこそが成仏への道なのです。
「頑固偏屈」ではなく、「伝統を守る信仰トラディショナルな宗旨」であることに誇りを持ち、これからも共に励んでまいりましょう。
佛乘寺の杏の老木も花を咲かせました。桜の便りも間もなくでしょう。花粉症にはつらい季節ですが、春の訪れを感じます。お題目を唱え、元気に明るく過ごされますようお祈り申し上げます。
(春季彼岸会[聖寿804年3月]にて)