『三大秘法稟承事』弘安5年4月8日聖寿61(御書1,594頁〜1,595頁)
題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。
末法に入って今、日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。
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《意訳》
南無妙法蓮華経の題目には二種類があります。一つ目は釈尊が入滅された後の正法時代の千年と、像法時代の千年、合わせて二千年の間に唱えられた題目です。正法時代には、インドの僧侶である天親菩薩や竜樹菩薩が南無妙法蓮華経を唱えました。しかし、彼らが唱えた題目は、自らの修行のために唱えたものでした。また像法時代にも、中国の南岳大師や天台大師などが南無妙法蓮華経と唱えましたが、この方たちも自らの修行のための題目であり、周りの人たちに教えたり、一緒に唱えることはありませんでした。これは、竜樹や天台の唱えた南無妙法蓮華経は、釈尊が説かれた文上の教えであり、理行の題目だからです。
しかし、釈尊が入滅して二千年が経過した末法の建長五年四月二十八日に、日蓮が唱え始めた南無妙法蓮華経は、正法時代や像法時代に唱えられた法華経文上の題目とは違い、自らの成仏と、すべての人々の成仏が叶う南無妙法蓮華経です。
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《天台や伝教も南無妙法蓮華経を唱えた》
➀『当体義抄』 御書702頁
此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱ふる事をば、自行真実の内証と思し食されしなり。南岳大師の法華懺法に云はく「南無妙法蓮華経」文。天台大師云はく「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文。又云はく「稽首妙法蓮華経」云云。又「帰命妙法蓮華経」云云。伝教大師の最後臨終の十生願の記に云はく「南無妙法蓮華経」云云。
《意訳》
南岳大師等は、自らの悟りのために南無妙法蓮華経と唱えました。南岳大師の『法華懺法』には「南無妙法蓮華経」と。天台大師は、
「平等大慧の教えである妙法蓮華経に帰命します」と。また「妙法蓮華経に帰依します」と。伝教大師は臨終の時に「南無妙法蓮華経」と唱えた、等とあります。
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➁『本尊抄文段』
伝教大師の深秘の口伝に云く「臨終の時南無妙法蓮華経と唱うれば、妙法三力の功に由り速かに菩提を成ず。妙法三力とは、一には法力、二には仏力、三には信力なり」と云云。「南無妙法蓮華経と唱うる」は豈行力に非ずや。(御書文段・200頁)
《意訳》
伝教大師の修善寺決には「臨終の時に南無妙法蓮華経と唱えれば、妙法蓮華経の三力の功徳で速やかに悟りを得ることができます。妙法蓮華経の三力とは、一には法力、二には仏力、三には信力です」と。南無妙法蓮華経と唱えるのは、行力ではありませんか。
《日蓮大聖人様の唱えられた題目と天台や伝教が唱えた題目との違い》
一、南無妙法蓮華経を説かれた仏様の違い
●釈尊(自らのための題目)
〇日蓮大聖人様(自らと周りの人々のための題目)
二、唱える時代の違い
●正法時代と像法時代
〇末法時代
三、機根の違い
●上根・上機仏(道修行をする上で能力や資質が勝れている者)
〇下根・下機(仏道修行をする上で能力や資質が劣っている者)
四、法体の違い
●寿量品文上の南無妙法蓮華経
〇寿量品文底の南無妙法蓮華経
《末法は折伏。折伏こそが成仏への唯一の道》
末法の仏道修行は折伏である、と大聖人様は仰せです
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➂『如説修行抄』には、
天台云はく「法華折伏破権門理」と、良に故あるかな。然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して益を求むる者にあらずや。鶏の暁に鳴くは用なり、よいに鳴くは物怪なり。権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや。されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひなし。 (御書673頁)
とあります
《意訳》
天台は「南無妙法蓮華経と唱えて、権りの教えを破折し屈伏させる」といっています。この言葉は真理を言い表しています。この天台の言葉のように、末法は折伏をすべき時代です。それなのに、摂受の修行である身とロと意と誓願の四安楽行をするのは、冬に種を蒔いて春に収穫しようとするのと同じです。ニワトリが夜明けに鳴くのは時を知らせる上で意味がありますが、宵に鳴けば怪しまなければなりません。権教と実教が入り乱れている時には、実教である法華経の敵を責めなくてはならないのに、山林に閉じ篭り摂受の修行では、法華経の修行をして成仏を遂げることができる折角の機会を逃すことになり、惜しいことです。そこで思いますに、経文に説かれ、天台が教える「法華折伏権門理」の修行をしている者が誰かいるでしょうか。誰でもよいので、「法華経以外の教えは成仏ができない、無間地獄に堕ちる教えである」と声も惜しまないで主張し、諸宗の教えと信仰をしている人を折伏してみなさい。三類の強敵が現れて迫害を受けることは間違いありません。
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④『百六箇抄』
日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破権門理とは是なり。
(御書1,700頁)
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➄『百六箇抄』
法自づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し。
(御書1,687頁)
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《折伏は難しいから功徳も大きい》
折伏は簡単ではありません。簡単にできれば今ごろは広宣流布です。簡単ではないから功徳も大きいのです。大きな功徳があるから、大聖人様は私たちに折伏の修行を勧めて下さるのです。大聖人様の仰せをそのまま伝えてくれて下さる御法主上人のもとで、自行化他の題目を唱え、自他ともの幸せを目指して精進を重ねてまいりましよう。
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《まとめ》
日蓮大聖人様が、建長5年(1253年)4月28日に、安房国清澄のお寺で、末法のすべての人々が、仏に成る法をお示しくださったときから775回目の4月28日が明日です。末法万年といわれる時間の上から考えますと、私たち末法に生を受けた一人ひとりが、成仏を目指す折伏の修行はまだまだ始まったばかりであるといえます。三世の生命からいえば、過去に何回くらい南無妙法蓮華経に縁をしたのでしょうか。過去のことは忘れておりますが、「御本尊様に巡り会うことができているのは宿縁です」との大聖人様のお言葉もございますので、少なくとも一回くらいは縁があったのではないでしょうか。生まれ変わる度に御本尊様を受持してその都度大きな功徳を受けた方も大勢いらっしゃると思います。今日ご参詣の皆さまは、臨終の時に、次ぎに生まれ変わる時も、御本尊様のお使いをしようと決意された方ばかりであると私は確信しております。でなければ、日蓮正宗の信徒として厳しい仏道修行に耐えることはできていません。
経文には、仏様が亡くなられた後に、法華経を受持することや、法華経を人に勧めることの難しさを「六難九易」として説かれています。その中には、たった一人に向かって法華経のことを話すことが難しく、三千大千世界宇宙全体をひとかたまり一にして、そのかたまりを足で蹴る方がまだ簡単である、というような譬もあります。
日蓮正宗の仏道修行が素敵なことがわかる譬です。素敵なこととは、それをなし遂げれば仏に成れる、という仏様からのお約束があるからです。は本日辟読いたしました『三大秘法抄』の、
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➅末法に入って今、日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。
の御文は、「日蓮が教えた南無妙法蓮華経は成仏の秘法である」と教えてくださるものです。
それまでの南無妙法蓮華経とは違い、末法の人を一人残らず幸せに導く南無妙法蓮華経である、という御本仏のお言葉を心の中にしっかりと入れて、自らの幸せと、周りの人たちの幸せを願い、実現するために、共どもに励みましょう。 あっという間に、佛乘寺の花水木の葉も、淡い緑色から深い緑色へと変わりました。杏の実や梅の実も一日ごとに大きくなっています。今年はミカンの花もたくさん咲き、境内には甘酸っぱい香りが満ちています。季節の移り変わりを早く感じるということは、それだけ来世が近くなっていることでもあります。よき来世を願い、今生での善根を、もっともっと積んでまいりましょう。物欲はほどほどに、善根を積む修行はむしろ欲張りでありたいものです。ご精進ご精進。
(立宗会〔聖寿804年4月27日〕にて)