『可延定業御書』文永12年2月7日54歳 御書760㌻
日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり。今女人の御身として病を身にうけさせ給ふ。心みに法華経の信心を立て、御らむあるべし。
〔更賜寿命〕
日蓮の母親が病気になったとき、平癒を祈りましたところ、病がよくなるばかりか、寿命を四年も延ばすことが出来ました。貴女も母も同じ女性です。病を得たことも同じです。であれば、今こそ法華経の信仰に立ち上がりなさい。
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《当抄を著された理由》
『可延定業御書』は、日蓮大聖人様が54歳の文永12年(1275年)2月7日に、富木常忍の夫人に宛てて書かれたお手紙で、千葉県中山の法華経寺に御真筆が伝えられています。
前年の文永11年の秋頃、夫人は病にかかり、一度は回復したものの再発の不安があったため、その様子を四条金吾が身延に登った際に大聖人様にお伝えしました。それを受け、大聖人様は夫人を励まし、病気回復の方法について御認め下さったのがこの手紙です。
《当抄のあらすじ》
まず病には軽病と重病があり、重病でも良医による適切な処置で命を延ばせること、また「業」には定まった業(定業・じょうごう)と変えられる業(不定業・ふじょうごう)があり、懺悔によって定業も消すことができる、と説かれています。
そして、法華経『薬王品』の「此の経は則ち閻浮提の人の病の良薬なり」との文を引かれ、この経が仏の真実の言葉であり、特に末法の女人の病を治すための教えである、と示されます。
続いて、法華経によって病と罪を共に癒やした阿闍世王や、寿命を延ばした陳臣等の例を挙げ、法華経を信じ行じる者には、病の癒しと延命の功徳があることを明かされます。
さらに、大聖人様の祈りによって御母が年の延命をした例を挙げ、病に悩む夫人も法華経の信仰を深め、四条金吾の治療を受けるよう勧められ、命を一日でも長らえることが尊い功徳である、と仰せになり法華経の信仰をする者の命の尊いことを教えてくださっております。
最後に、四条金吾が語った病の再発の懸念に触れ、大聖人様は日天月天などの諸天善神に夫人の病気平癒を申し付けるので、名前と年齢を書いて届けるように、と仰せになられ、子息日頂に対しては『寿量品』の「自我偈」を読誦して、母の平癒を祈るように勧めたことを記されて本抄を結ばれています。
《「定業」と「不定業」》
「業」は私たちの、身(身体)とロと意(心)から起こるさまざまな行いや振る舞いのことです。善い行いを「善業」、悪い行いを「悪業」といいます。
また、過去世の行いを宿業(しゅくごう)と、現世の行いを現業(げんごう)といいます。過去世の善い行いは宿業でも善業となり、悪い行いは悪業となります。宿業というと、つい悪い業を思い浮かべますが、善と悪の業があること忘れないようにいたしましょう。
また、業によって受ける報いも種類があります。一つには「定業」、二つには「不定業」です。
《定業》
「定業」は、過去の善悪の行いが原因となり、その報いが未来に結果として現れることが定まっている業のことです。インドの世親(せしん・天親ともいう)が著した倶舍論(くしゃろん)には、次の種類の定業が記されています。
一、順現法受業(じゅんげんほうじゅごう)。順現業ともいい、現世に業を作り現世で報いを受けることです。
二、順次生受業(じゅんじしょうじゅごう)。順生業ともいい、現世の業の報いを、生まれ変わった次の生で受けることです。
三、順後次受業(じゅんごじじゅごう)。現世の業の報いを、次の次の生以降に受けることをいいます。
このように、善悪の業の報が現れる時が3種類に分かれることから、「三時業」ともいわれます。
ここで示されますように、現世での行いが直ちに現れるものではない、というのが仏法の三世の生命観です。
《業とその報い》
この業と報いについて大聖人様は『災難退治抄』で、
「疑って云はく、若し爾らば何ぞ選択集を信ずる謗法者の中に此の難に値はざる者之有るや。答へて日く、業力不定なり。順現業は法華経に云はく『此の人現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん。乃至、諸の悪重病あらん』と。(乃至)順次生業は法華経に云はく『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば〇其の人命終して阿鼻獄に入らん』と。(乃至)順後業等は之を略す」 (御書198㌻)
と仰せです。
『災難退治抄』は問答形式で御認めになっており、ここの「疑って云はく」は質問です。どのような質問かといえば、
「法然の著した『選択集』を信じている謗法の者の中に、大地震や大飢饉や大疫病に遭わない者がいるのは何故でしょうか」というものです。その答えとして、「業力不定なり」と述べられます。この場合の「業」は当然のことですが悪業です。「力」は用き、「不定」は定まりがない、決められたものがない、ということです。したがいまして、悪業にもさまざまな種類がありますが、それによって受ける報いもさまざまであり、定めがない、という意です。ただし、定めがないといっても、報いを受けることは定まっております。その受けなければならない報いを、経文の上から教えてくださるのです。
《順現業・若実・若不実》
最初に挙げられているのが「順現業」です。引用される法華経は、『妙法蓮華経普賢菩薩勧発品二十八』です。そこには、法華経を持つ者のことを、真実であっても真実でなくても誹謗する者は、現世に白癩病や重病の報いを受けることが説かれている、と。白癩病は不治の病であり、病の中でも最も重いものである、とされていました。
これは法華経を信ずる人の悪口をいってはならない、という誡めです。経文には、「若しは実にもあれ若しは不実にもあれ」とあります。私たちの立場にあてはめると、大聖人様の仰せを固く信じて、日蓮正宗の御本尊様を受持する者のことを、例え本当のことであっても、悪く言ってはなりません、ということです。御本尊を受持して折伏に励んでいる人には、悪業はない、悪人はいない、と読みかえることができます。但し、御本尊様の信仰を利用するような者、例えば創価学会の池田元会長や、顕正会の浅井元会長などは、次のカテゴリーにピッタリあてはまりますので、私たちが指摘するまでもなく、来世以降に想像を絶する苦を受けなくてはならないことが定まっています。彼らを他山の石として、我が身を律し、御本尊様第一信心根本で進んでまいりましよう。
《順次生業》
次の順次生業については、『法華経譬喩品三』を挙げられ「法華経を信じないで、毀(けな)したり、謗(そし)ったりする者は、『命終』つまり死後に、阿鼻獄(無間地獄・むけんじごく)に生まれ変わる」と仰せです。
《無間地獄とは》
「無間地獄」とは、仏教で説かれる最も重い地獄で、「無間」とは”間(ま)が無い”という意味です。では、何の”間”が無いのかといえば、それは”苦しみ”です。苦しみが一瞬たりとも途切れることがない。これが無間地獄の特徴です。たとえば、ふつう私たちが苦しいときでも、少しの休息があったり、気を紛らわせる何かがあったりします。けれども、この無間地獄にはそれが一切ありません。昼も夜もなく、ほんのわずかの間(ま)さえも苦しみが休まらない。そんな想像を絶する世界です。
大聖人様が、この地獄に堕ちるのは、法華経を誹謗する極めて重い罪を犯した者、と教えてくださるのは、それだけに、「いかに今を生きるか」を問いかけてくださっていると拝することができます。
最後の「順後業」については「略す」とされておりますが、生まれ変わっても生まれ変わっても大きな苦しみを受け続けることに変わりはありません。
《不定業》
「定業」に対する語が「不定業」で、果報を受けることが定められていない業のことです。
大聖人様は『一代五時図』(御書494㌻)で、
「『十悪』じゅうあく・殺生・偸盗・邪淫など十種の悪行や『五逆罪(ごぎゃくざい・父母を殺す、仏を傷つけるなど極めて重い五つの罪)』は、確かに大きな罪ですが、それでも『一業引一生(いちごういんいっしょう)』で、その罪の報いは一生にとどまる」(趣意)とおおせです。つまり、来世に影響を与えることはあっても、多くの場合、一度きりの生で償われるというのです。
続けて、「謗法(ほうぼう・正法を否定したり誹謗する罪)は、それをはるかに上回る重罪である」とされ、『一業引多生(いちごういんたしょう・一つの謗法の行いが、未来にわたる多くの生にわたり、悪道に堕ち続ける原因になること)』(趣意)と説かれています。謗法の罪がいかに大きいかを教えてくださる御文です。
『開目抄』では
「順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つベき者は、重罪を造るとも現罰なし。一闡提(いっせんだい)人これなり」(御書571㌻)と仰せです。
たとえ来世において地獄に堕ちることが確定している「一闡提(仏法の正しい道理を頑なに否定し、信じようとしない者)」であっても、現世においては必ずしもその報い(罰)が目に見える形で現れるとは限らないことをお示しです。
いかなる業にも「軽重(けいじゅう)」があり、軽い罪(軽業)の報いは、状況や縁によって結果が変わる「不定業」となり、極めて重い罪(重業)は、どんなことがあっても必ず報いを受け「定業(じようごう)」として現れます。特に正法を否定するような謗法の罪は、非常に重く、その報いから逃れることはできないのです。
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〇富木常忍の夫人を通して、日蓮大聖人様が私たちに教えてくださること
《心みに法華経の信心を立てゝ御らむあるべし(今こそ信心に立ち上がろうではないか)》
※定業や不定業の教えがあるのは、仏法で運命を変えることができる、と明かすため
《私たちの境遇は、過去の行いから生まれている》
仏法では、人間も動物も、すべての生命は「過去に自分が何をしてきたか」という行い=業(ごう)によって、今の姿や境遇に生まれてくると説いています。たとえば、わがままに生き、人を傷っけたり欲望のままに振る舞った過去があると、次の命は畜生界、つまり動物のような境遇に生まれることになります。これは本人の意志とは関係なく、自然の法則のように働く「因果の道理」なのです。
《仏法では「霊魂が永遠に生きる」とは考えない》
よく「人は死んでも魂は残る」「霊がさまよう」といった話がありますが、仏法では、固定的な霊魂がいつまでも存在するとは考えません。そうした考え方は「外道の常見(じょうけん)」、つまり誤った見方とされています。
仏法が教えるのは、生命は刻々と変化していくものだということです。過去・現在・未来にわたって、因縁によって流れていく命の連続性です。だからこそ、「今、この一瞬をどう生きるか」がとても大切なのです。
《変えられない運命と、変えられる運命》
前述しましたように、報いとしてすでに現れているか否かにかかわらず、どうしても変えられない運命が「定業」です。たとえば、生まれつき目が見えないとか、重い病気でどうしても助からないというような場合が考えられます。
一方の「不定業」は、まだ決まりきっておらず、現世での信心によって良い方向に変えられる運命、といえます。命に差し障るようなことがない病気やケガや、人間関係の悩みなどは、正しい生き方をすれば乗り越えられます。皆さまが日々の生活で経験されていることです。
私たちの人生には、この定業と不定業の両方があります。ところが、多くの人は不定業ですら変えられず、苦しみに沈んでいるのです。何故ならば、仏法で教えられる、三世の生命を知らないからです
《正法の力で「定業」も変えられる》
それでは、変えられない「定業」はどうにもならないのか? いいえ、日蓮大聖人様の仏法はそこが凄いところです。日蓮大聖人様が当抄でお示しくださる、
「定業であっても、深く懺悔(ざんげ)し、妙法を信じて唱えれば、必ず消すことができる。ましてや不定業ならなおさらである(趣意)」 (『可延定業御書』)
とのお言葉を心に深く刻むことが大切です。つまり、たとえ定まった重い運命でも、本気で自分の過去を見つめ、心から悔い改めて、南無妙法蓮華経と唱えるならば、その運命さえも転じていける、ということなのです。生まれつき目が見えない人も、妙法を信じきることで「法眼(ほうげん)」や「仏眼(ぶつげん)」、つまり物事の本質を見抜く智慧の眼を得て、今世では健常者よりも高い境界を築くことができるようになります。「心の眼」を開くということです。
《功徳には見えるものと見えないものがある。「顕益」と「冥益」》
妙法を信じ、折伏と唱題に励むことでいただける功徳には、「顕益(けんやく)」と「冥益(みようやく)」の二つがあります。
顕益:目に見える功徳。病気がよくなったり、人間関係が円満になったり、生活が安定するなど。
冥益:目には見えないけれど、深く心や未来に働く功徳。来世で苦しみを離れ、善い人生を送る因(たね)になります。
冥益は、ちょうど土の中で芽を出す準備をしている種のようなもの。目には見えなくても、確実に育っています。妙法の力は宇宙全体に広がっているので、誰でも、どんな人でも、南無妙法蓮華経と唱えることで、運命を転じ、定められた苦しみを超えていくことができるようになります。
《あきらめない》
「定業は消せない」とあきらめるのではなく、「定業すらも変えられる!」という希望こそが、仏法のカ、仏力・法力なのです。
信力・法力を励まして、御本尊様を信じ、実践するところに、人生を明るく変える大きな道が開けていくのです。
《最後に》
風薫る5月、といわれたころが懐かしく思い出されます。今年の夏も猛暑の予報です。激変する自然環境も、地震や台風や洪水などの自然災害も、正報である私たち人界の衆生の心の用きと密接に結びつき離して考えることができない、と説くのが仏法であり、大聖人様の御教えです。
『諸経と法華経と難易事』に日わく
「仏法やうやく顚倒(てんどう)しければ世間も又濁乱(じょくらん)せり。仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意(ぶっち)に随って自然に薩般若海(さばにゃかい)に流入す」(御書1,469㌻)
《現代語訳》
「仏法が正しい姿を失い乱れていったので、世の中もまた混乱し、乱れてしまったのです。仏法は”からだ”のようなもので、世の中はその”影”のようなもの。からだが曲がれば、影も当然ゆがんでしまいます。ありがたいことに、日蓮の門下の者は、仏の心にかなった信心をしているおかげで、いつのまにか仏様の智慧の大海に向かって進んでいるのです」
暑い暑い、大変だ大変だ、困った困った、というばかりではなく、「我が一門」の自覚を胸に、仏様の大きな大きな腕で抱き上げていただける時の歓びを思い、折伏に精進することで、大変なことも困ったことも、素敵なことに変えていくことができます。互いに励みましょう。努めましょう。
(朔日講〔聖寿804年5月1日〕にて)