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「寂日房御書」

二月の御講で『寂日房御書』を副教材として拝しました。今月の御書『椎地四郎殿御書』にも、「一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし」とありますことから、再度ここに挙げます。

寂日房御書

かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事不祥(不請)なり。まぬかれがたき身なり

の「不祥」は「不請」の誤写であり、大聖人様が私たちに向かって「不請の友」と仰せくださっている、と二月の御講で申しあげました。今月の御書でも「折伏をする人は日蓮と宿縁が深いのです」と仰せくださっておりますので、「不請の友」について再度述べます。

不請の友」という語の典拠の一つとして考えられる『勝鬟経』には、

普ねく衆生のために不請の友となりて、大悲もて衆生を安慰し、哀愍し、世の法母となる」(大正蔵12・218)

とあります。

この文は、「すべての衆生のために、請われなくとも自ら友となり、大いなる慈悲によって衆生を慰め、哀れみ、この世において仏法を育む母のような存在となる」と理解されます。

このように「不請」とは、菩薩が主体的に人々を救おうとする態度を表す語です。

「不請」と折伏

この「不請」の精神は、まさに折伏の実践と一致します。すなわち、相手から教えを求められていなくとも、自ら進んで法を説き、仏道に導こうとする行動ですから折伏そのものです。この精神は、日蓮大聖人様の折伏行と同じであるといえます。私たちが日常生活の中で、病気や悩みを抱える友人や知人に対して、相手が助けを求める前に声をかけ、御本尊様の功徳や仏法の正義を語ることは、まさしく「不請」の実践にほかなりません。したがって、「不請」は、折伏を象徴する言葉であるといっても過言ではないと思います。

大聖人様が私たちに『寂日坊御書』で、「法華経の行者といはれぬる事不請なり」と呼びかけてくださる御意を深く心に留ましょう。有り難いお言葉ではありませんか。もったいないお言葉ではありませんか。このように仰せくださることが嬉しいではありませんか。

今月拝読の『椎地四郎殿御書』や『寂日房御書』、また『諸法実相抄』などの御文から、日蓮大聖人様が私たち弟子檀那に求められた信心の姿勢——請われなくとも進んで法を弘める「不請」の精神、すなわち折伏行に生きる実践——が改めて浮き彫りとなります。「まぬかれがたき身なり」との御文のとおり、私たちはこの不請の使命から逃れることはできない、と覚悟を決め、そしてそれこそが、末法における成仏への唯一の道であり、最も尊く意義深い人生の在り方であると確信し、共どもに精進を重ねてまいりましよう。檀信徒ご一同の愈々の御健勝をお祈り申し上げます。

(副教材:御報恩御講[聖寿804年5月]にて)